見知らぬ霊が法事にやってくる話

先日、法事をした檀家さんから聞いた話。
その法事に来ていた親戚が、霊が見えてしまうという人で、法事をしている最中、祭壇には家の先祖だけでなく、ほかの霊も来ていたという。震災の後だから、被災して亡くなった方が浮かばれないでいるのだろうかと思ってぞっとしたそうだ。
私はそれに対し、それは気持ち悪いことではなく、とてもよいことだと答えた。先祖供養をするにあたって、縁のない霊に救いの手を差し伸べることはたいへんな功徳になる。お経を読んだ後にも、この法要の功徳を「有縁無縁三界万霊」に回向している。その対象がきちんと供養を受けに来ていたということだから、所期の目的が達成されたと考えるべきであろう。先祖としても、自分の家の子孫がそういった立派な功徳を積んだことが喜びになるに違いない。
ついでに言えば、そのお家の法事ではいつも、床の間に祭壇を設え、6個の団子を六合に分けてお供えし供養した。天上界から地獄に至る六道のどこにいる者にも、お供えが届くようにという意味がある。近年はこの準備を省略して、仏壇で法事をすることも少なくないが、もし見知らぬ霊が本当にやってきたとすれば、この祭壇の効果もあるかもしれない。
仏教は自業自得が原則なので、功徳をやりとりするわけではない。回向は、心が共鳴することだと、藤本晃氏は述べる。「あの人がこういう善行為をした。すばらしい。しかも自分の善行為の功徳を、幸せを、わたしにも分けてくれようとしている。なんとありがたいことか」と気づくことによって、浮かばれない霊に救われていくのである(『功徳はなぜ廻向できるの?』国書刊行会)。
幸か不幸か霊が見えない私は、法事でもそういった対象を思い描いているわけではない。むしろ雑念を払って、読んでいるお経の内容に集中し、平常心を保つように心がけている。でも、そこに反応してくれている霊がいるとすればたいへんありがたいことだ。
震災の後、読経でも御詠歌でも、不幸にして命を失った方々のためにという気持ちをもつようになった。それくらいしかできることはないのは恥ずかしいが、救われる霊が一体でも増えることを願う。
願わくはこの功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを

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