昨日、今日と2日間にわたって、近くの小学校で人権教室が行われ、講師として行ってきた。人権擁護委員の活動のひとつで、毎年市内の小学3年生を対象に、いじめについて考えてもらっている。
教材として使用したのは、法務局が作成した「いっちゃん、ごめんね」という教材。1年生のたけちゃんは、いっちゃんが紫色のランドセルだったことを馬鹿にしていじめたが、翌日は自分が、古い筆箱でからかわれていっちゃんの気持ちを分かったというお話である。いじめられっ子が固定されず、自分がいついじめられるか分からない現状にマッチしていて、明日は我が身かもしれない子供たちも真剣になる。
教室には7〜8名の人権擁護委員が全員入り、進行、板書、最後のお話などの係に分かれる。自己紹介と人権擁護委員の仕事について簡単に説明をしてから、物語を読み、登場人物を整理し、たけちゃんがどんな気持ちに気づいたかを書いて発表してもらう。
打ち合わせで確認したのは、押し付けがましくならないこと。日頃、人権相談で一番注意していることでもある。授業ではある程度一方的にならざるを得ないが、和やかな雰囲気で進めることができたと思う。
5クラスの授業で、最後のお話の係が2回あった。先日、地元の小学校のPTA研修会で講演をしてきたと言ったので当てられたのかもしれない。とはいえ、お寺の住職としてではなく、一市民として話すわけだから、別のことを話さなければならない。
いろいろ考えた結果、自分が子供の頃に言われて嫌だったことを話してみた。(今は結構かっこいいヘアスタイルでもあるが)坊主頭をハゲと言われたこと、(今は結構普通になりつつあるが)片親と言われたことなどである。ネガティブで、ややプライバシーに関わるため、自分をさらけ出すのは恥ずかしかったが、そういうことは学校ではなかなか聞けないだろうと思って話した。子供たちの心に少しでも響いてくれればよいと思う。
私は心の教育みたいなものには否定的で、心自体は自由で秘密であるほうがよいと思う。それが具体的行動に表れるときにだけ、他人や自分を傷つけたりしないように教える。個々の微妙で深遠な精神世界を、画一的なスローガンで縛るのは効果がないどころか、逆効果になることだってある(心理的リアクタンス)。
話のまとめでも、建前だけの精神論ではなく、具体的な対処法を話すように心がけた。いじめの現場で「やめろよ」と止めるのは確かに立派だが、そんな勇気を誰でも持ち合わせているわけではないし、言ったところで止まる確率も低い。それならば上手に話題をそらすとか、事後、いじめられた方のケアに回るとか、いじめた方をこっそりたしなめるとか、その人なりにやり方を考えればよい。無関心(を装うこと)が最も悪い。
そして応援している仲間がクラス・先生・家族・地域にたくさんいるということを伝え、自信をもつよう励ました。社交テクニックでカバーできない子供には、多くの手助けが必要である。
偽善なのかもしれないが、子供たちの前でこんな話をすると、将来のある子供の役に立てたかもしれないということに、言いようのない満足感が起こる。教師のやり甲斐とは、このようなものなのだろうか。1日目は終わってから、コンビニで買ったおにぎりを車の中で食べて午後からお葬式。2日目はほかの委員の先生とゆっくりお昼を食べて帰ってきた。