仏教では因果応報とか自業自得ということを説くが、近年その解釈が揺れている。というのも、病気や貧乏に苦しむ人に対し、経典や僧侶が1000年以上の長きにわたって説いてきた「それは前世の報いですよ」というのがNGになったからだ。
NGになった理由は、この説法が現世を精一杯生きる努力を否定し、社会差別や人権蹂躙を肯定することになるからだが、その背景には、世俗主義が行き渡り、前世や来世を信じることや公言することが胡散臭くなったということもありそうだ。
しかし経典には相変わらず因果のことは説かれているわけで、どうにかして折り合いをつけないといけない。この頃は因果という言葉を出すこと自体控える人も多い中、頑張って書いている人の解決策は概ね次の3つのようだ。いずれも文脈を限定し、無条件に一般適用されるのを防ぐ。
1つ目の解決策は、仏道修行に限定することである。釈尊以来2500年の間続けられてきた修行を続ければ、必ず菩提に至るという話に限って因果応報を認める。釈尊もその弟子たちも、昔は我々と同じ凡人だった。だから我々も、未来には釈尊や弟子たちのようになれると信じて、代々伝えられてきた方法で修行する。
2つ目の解決策は、未来志向に限定するというものである。過去は変えられないが、未来は今の努力で変えていける。努力が無駄になったように見えることがあっても、さらに未来において実ることを信じるべきである。
3つ目の解決策は、自分だけに限定することである。イラクで拉致された日本人に自業自得というように、他人のことをとやかくいう筋合いはない。複雑な因果関係など分かるわけがない。だが、ひたすら自己を頼り、自力でものごとを成し遂げる。
どれも腑に落ちるものばかりだが、因果応報をこのように解釈するのはよいとして、昔の経典を、このように捉えることはできるかが問題だ。
『正法眼蔵』の「深信因果」は、まさに1つ目の解釈を支持する。「修因感果(因を修行して、果報を感得する)」という言葉もある。だから生半可に仏法を勉強したぐらいでは、因果の話をみだりにしてはいけないという。
しかしその次の「三時業」は、仏道修行に限定した話ではなくなっている。善悪の報いを、①生きているうちに受けること、②次の来世で受けること、③次の次以降の来世で受けることが「三時業」である。
①の例として、道に迷って死にそうになった猟師が、助けられた熊を裏切る話が出てくる。7日間も山中で看病され無事下山できたのに、仲間の猟師と行って熊を殺してしまう。肉を集めようとしたそのとき、スパッと両腕が落ちた。これが生きているうちに受ける悪業の報いであるという。こえ〜。
また善業の例もある。宦官が去勢されそうになった牛500頭を、私財をなげうって助けたところ、男根が生えてきて男になった。王様はこのことを聞いて、後宮担当だった宦官を、政治の高官に据えたという話。首を斬られるというオチじゃなくてよかった。
②の例では、五逆が出てくる。父殺し、母殺し、修行者殺し、釈尊への傷害、僧侶団体の破壊をした者は、無間地獄に落ちる。父母殺し以外の3つを犯したデーヴァダッタが出てくる。いかに彼が苦しむかが説かれる。でも現代で、親殺しの事件があったときに「彼は必ず無間地獄に落ちるだろう」なんていうお坊さんがいるだろうか。
③の例は、善行をして一生を送ったのに地獄に落ちてしまう人の話。しかしこの人は、前世の悪業の報いが今来たのだから、あとは天上に行くばかりだと喜んだという。もしここで、今まで善行をしてきた功徳は無意味だったと思うならば、地獄から出られないという。この逆、つまり悪行の限りを尽くして天上に行ってしまうケースもある。因果はないと考えることが戒められている。
とはいえ悪業は必ず報いを受けなければいけないわけでもない。そのために懺悔がある。懺悔すれば悪業はなくなるか軽くなる。そして善業は一緒に喜ぶことで増加する。業のコントロールができるというところが落としどころになっている。
この例には、上記の1〜3の解決策が当てはまりにくい。あえていうなら2の未来志向か(③など特に)。あくまでも例だから、言わんとするところは1だというならば、例に当てはまらない理屈を、仏道修行に当てはめる無理が出てしまう。そうなってしまうことまで含めて、「生半可に仏法を勉強したぐらいでは、因果の話をみだりにしてはいけない」というのだろうか。臭いものにフタみたいな結論だったら嫌だな。