今日の勉強

ムンバイ本照合は53/60。
インドの哲学史は、スートラ解釈史である。独自に著作をするのではなく、学派の創始者が短く記したスートラに注釈をつける。その注釈にさらに複注、複々注と加えられて、基本文献が出来上がっている。なので現代のインド哲学者も、自然と注釈をつけるように論文を書きたくなるのかもしれない。
時代が変わると、理論が発達してスートラが通用しなくなる。そのときに注釈者がよく使うのがウパラクシャナである。スートラの文言は一例に過ぎないとして、著作当時は想定していなかったものまで拡大解釈する手法である。
このウパラクシャナ、梵英辞典にはsynecdoche(提喩)と書かれている。その中でも、一般化の提喩にあたる。「人はパンのみにて生くるにあらず」でパンが食べ物一般を表すように、代表的な個をもって類を表すというものである。
ウパラクシャナとシネクドキは全同でない。個別化の提喩は含まれず、また個は偶然的でもよいからである。例えばカラスが止まっている家で、カラスがその家のウパラクシャナになる(故谷沢先生がそんなことを言っていたなあ)。まあ、よく止まっている家じゃないとそんな喩えは成り立たないだろうけど。
さてウパラクシャナの訳であるが、インド哲学では「代喩」と訳されるが、レトリックの分野では「提喩」が一般的らしい。「代喩」と訳すレトリック学者や辞典もあるが少数である。「代喩」で慣れきっているが「提喩」にしたほうがよいだろうか。どっちも一般的ではないから、そのままでもいいか。

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