朝日新聞に2年間にわたって掲載されたコラムを加筆修正したもの。初期仏教の思想を、現代の生活に即して紹介する。著者は花園大学の教授だが、空理空論に走らず、また抹香臭い説教にもならず、日常の言葉で語っているところがよい。
インドの仏教では当初、肉食と殺生は切り離して考えていた。生き物を殺さないようにして暮らしつつ、お布施はありがたく頂かなくてはならない。しかし一部の仏教徒が肉食しなくなったのは、インド社会の「肉には穢れがある」という考えに影響されてのことだという。それでは「差別の沼に足を踏み入れている。」
お寺は、野宿で暮らす修行者を気の毒に思う人が建てたのが始まりである。今も、お寺に固定資産税がかからないのは、公共物だからであり、仏道修行という業務、誠実さという家賃を怠ってはならない。建物だけは立派なんてことになっていないか。
仏教は本来、非社会的な宗教であり、世間の片隅で悩む人たちをそっと受け入れてきた。お釈迦様が、自分の出身の一族が滅亡させられてしまうが、政治的にも軍事的にも抵抗しなかった。それは「仏教は政治に関わることができない」というメッセージだという。
その一方で、社会に迎合してしまう危険性がある。日本中の僧侶がこぞって戦争協力をしたのは、当時の善意でもあっただろう。この「宿命的板挟み」には、自分の考えが絶対正しいと思わないことと、仏教がもつ独自の世界観を失わないことで正しい判断を心がけるしかない。世界平和だって、ときに全ての人の幸福になるとは限らない。
宗教の実体は、資金調達と使途、決定システム、一般社会からの批判に対する対応、政治へのかかわりの4点が注意点である。ありのままに社会に向かって公開できているか。不都合なことは隠していないか。
仏教の3つの柱に入っている「僧」とは、集団としての僧である。集団生活には、雑事に時間をとられず、病んだり老いたりしても支えてもらえる相互扶助システムがある。僧侶は、みんなと力を合わせて修行に専念していることによってのみ、敬われる存在になるということだ。
慙愧=良い人を敬い、至らぬ自分を反省するのはとてもよいことであるとされる。劣等感も、心の大切な栄養であるという。傲慢になって地道な努力をやめてはならない。
仏教では自業自得ということをよくいう。でも著者は「そうやって批判する人は、今苦しんでいる人たちの、苦しみの原因を、きちんと論理的に説明できるのか」と反問する。社会の巡り合わせまで考えることが必要であり、因果応報を誤ってはならない。
「お坊さんの価値」は、新聞連載時から気に入っていた一節だ。お布施の適正価格が決められないのは、僧侶の「姿や言葉」に対して払うものだからである。金額を、お布施をされる側が決めるのはおかしいことなのだ。
お釈迦様の遺言に「自灯明、法灯明」と2つあるのは、どちらか一方ではいけないからだと著者は考える。前者だけでは独りよがりになり、後者だけでは盲信になってしまう。「一見修行しているが、実際はパターン化した儀礼を繰り返すだけ」というのは鋭い指摘である。
ほかにも輪廻、自殺、科学、悟り、言葉など興味深い問題が続々。どの章を取っても、自分に当てはめてあれこれ考えたくなってしまう。折に触れて思い返し、考えていきたいことばかりである。