後輩の結婚式

都内で行われた大学の後輩の結婚披露宴に出席した。新婦も同じ研究者で知り合いだったため、2倍楽しい宴会だった。
挙式の報告、新郎への祝辞、新婦への祝辞、乾杯はみんな大学の先生。破我品とか、真知論とか、プラマーナとか、聖典解釈学とか、遠慮ない専門用語が飛び交う。4人でまる1時間、講義を聞いているかのよう。
ちなみに式は文京区音羽の護国寺で挙げてきたという。ちょうど今読んでいる本の中で、徳川綱吉の母が帰依して作られたお寺だというのを読んでいたところ。真言宗豊山派の本山の1つである。すごい人脈(法脈?)だ。
皇居を窓の下に見下ろす絶景の中、和やかに式は進行した。私のテーブルはインド哲学の先輩方がずらりと並び、合宿までして1日中文献を読んでいたころが懐かしくなった。
結婚式に呼ばれることはずいぶん少なくなったが、以前は悲壮感を抱くことが多かった。家庭という重荷が増えて、親戚づきあいも2倍になり、お互いに自由を奪われるのはたいへんだろうなとか、出会いがあれば別れあり、いずれにせよ死別するのにとか不謹慎なことを思っていた。だが、今日はあまりそう感じなかったのは、新郎新婦の明るい性格のためかもしれない。しばらく関東にはいないようで、大学やお寺のしがらみから自由でいられるのも安心だろう。
その後お茶を飲んで2次会。その間にいろいろな人と喋っているうちに、一休みしている博論に着手したいという気持ちがむくむくとわいてきた。
環境がないと勉強し続けるのは難しいだろうと言われ、独りで勉強し続けるというのは実にチャレンジングなことなのだと思うと、やる気が湧いてくる。関西の先生が私なんぞに期待しているという話を聞き、インド留学仲間は学会発表を勧めてくれた。同輩も、自分の研究分野の関係で私の研究成果を聞きたいという。そして指導教官からは「今年中に!」とダメ押し。
こんな怠惰な自分を目にかけている方がいると思うと、本当にありがたい。博士号を取っても今の世の中、お金やポストが付いてくるわけではない。でもこんな先生や仲間たちのために書くのは、悪くないことだと思った。
振り返ると、つくばとの往復生活がなくなった山形生活は、ずいぶん自由時間がある。除雪はしてもらえるし、お葬式は月に1〜2回だし、法事も冬場はお休みである。子供たちが登校・登園すればあとは夕方まで何もない。そこで今はその自由時間のほとんど全てをパソコンに向かい、ボードゲーム関係のブログ更新や翻訳をしているわけだが、博論を書こうと思ったら時間は十分取れる。どこかに勤めている人からみれば、非常に恵まれた環境なのに、生かしていない。
勉強と仕事を両立させよう、そんな決意が急に生まれた1日だった。

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