朝日新聞の声欄で、「読経中、携帯メールする僧侶」という記事があった(2月4日朝刊)。法事で読経の最中に、お坊さんの携帯電話が鳴り出し、いったんは切ったものの、またかかってきたので、今度はメールを打っていたとのこと。
「私たち参列者は亡母をしのびつつ一緒にお経を唱えておりましたが、僧の態度にびっくり。約20分の法要終了後も、言葉が出ませんでした。」「仏さまも驚かれたことでしょう。仏教界はどうなっているのでしょうか。」
この記事について、中外日報の社説では、投稿者が匿名になっているところに着目する。「内容もさることながら、七十八歳という投稿者が匿名なのも、見逃せない。投書による菩提寺との関係悪化を恐れておられるのだ。」
非常識であることは誰の目にも明らかだと思うが、それと共に、僧侶という伝統的な存在と、携帯電話という現代的な道具のミスマッチもあるのではないかと思う。
私は修行中、法要中は腕時計を外すように指導されてきた。時間を守って行動しなければならない修行僧にとって、腕時計は必需品だが、法要中に合掌した腕についていると、何か違和感を感じる。メガネを黒縁に統一している僧堂もある。
結婚指輪やネックレスなどの装飾品はもちろん、こうした生活必需品であっても統制をかけるのは、第一にはお釈迦様や宗祖の時代と同じように生きようとする心がけの現われだろうが、見た目にミスマッチというのもありそうだ。
今や生活必需品となりつつある携帯電話。これも同じで、衣姿の僧侶が使っている姿はどこか格好が悪い。そう感じるのは私だけだろうか?
私は電源をこまめに切ることができないので、近所の法事には持っていかないようにしている。マナーモードにしていても、静寂の中で鳴ると分かるし、マナーモードにするのを忘れていると雰囲気がぶち壊しになってしまうからだ。