『論理病をなおす!―処方箋としての詭弁』

日本人には論理が足りないとか、論理力を鍛えようということがよく言われるようになってきたが、それでは日本人は論理力がないのかといえばそうではない。詭弁にも一理あり、論理的であろうとしたために詭弁にだまされるということがある。修辞学、特に議論や詭弁について研究を続けている著者は、とうとう詭弁を通して人間の本質が理解されるという地点まで到達した。
議論の目的は真理の追及や問題の解決ではなくエロースにあるという。「議論とは、言葉で他人を支配し、自分の精神を伝播させようとする営みである。」議論が嫌いな人は相手がしゃべる分だけ自分のしゃべる時間が減ることを恐れる。
「多義あるいは曖昧の詭弁」は、不寛容の原理(相手の議論が誤りになるように、できるだけ相手に不利に解釈しようとすること)から生じている面もある。子どもが「みんな持ってる」というのに、親が「みんなとは誰か」と聞いて、子どもが3人しか挙げられないとしても、それが「みんな」でなぜいけないのか。曖昧さを取り除こうとすることも、また詭弁になりうる。
「藁人形攻撃」(相手の主張を反論しやすいように歪める)には、騙す意図がないが読解力が薄弱であったり、自分の主張に強い信念を持つあまり行ってしまったり、とっさに反論が思いつかずに引き伸ばすために行うものもある。相手が鬼だったら、桃太郎がどんな卑怯な手で勝ってもよいようなものである。
「人に訴える議論」(人格、動機、行動、過去の発言との整合性から議論を否定する)は、必ずしも無関係ではなく、人が根拠を補完する場合が多々ある。ゆとり教育論者が自分の子どもを進学校に通わせていたら、建前の正論であることが分かる。
「性急な一般化」(少数の事例から全てに適用する)は、すでに一般化された見方に整合する場合が多く、実害を蒙っているのならばなおさら、誤りとはいえない。ゴキブリが一度でも入っていたら、その店には行かないのが普通である。また、人間は否定的なものよりも肯定的なものに心を奪われやすく、偏りが起こる。占いが当たると思うのは、当たらなかったことが認識に上りにくいためである。
論を進めるに当たり取り上げる事例豊富で、解説も機知に富んでいて読み物としても面白い。語学の達人が書いた語学学習法を皮肉たっぷりに取り上げるあとがきは笑えた。詭弁を知ることは、人間を知ることである。

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