安易な答えを出さず、ストイックに仏教をひたすら問い続ける南師と、初期仏教の視点から現代の日本仏教に足りないものを教えてくれるスマナサーラ師という、今最も注目される2人の対談は、期待通りの素晴らしいものだった。
第1章「出家するということ」では、南師があくまで自分を問いの一番に立てるのに対し、スマナサーラ師は「何一つも自分のためであってはいけない」「先生が仰るような信仰そのものは、ばくちというか、賭けなのです」と説く。第4章「根底から揺らぐ現代日本社会」では瞑想することを条件に話を聞いたというスマナサーラ師と、中学の講演で「大人になるということは、夢を捨てていくことだ」、自殺志願者に「では、お前の命、五円でおれに売れ。奴隷にして使うから」と言い放つ南師。
こうした話の中で、僧侶という生き方のスタンスの違いが現れていて興味深い。おそらく現代日本は、共同体意識が薄まっており、その分、何にも頼らず自分のことは全て自分で引き受けなければならなくなっているのだろう。自らの悟りを優先するはずの上座部仏教が慈悲を説くというのも興味深いが、私は社会の外からものを言わずに中に身を置き続ける「共苦」の南師に強い共感を覚える。
第3章「悟るということ、知るということ」では言葉の哲学的な問題に迫る。スマナサーラ師が言葉を超えた世界=無常を説くのに対し、南師は人間の全てを言葉が介在する世界と捉え、あくまで言葉にこだわって真理をもとめなければいけないとする。言葉の世界の先に何かがあるか否かは、インド哲学でも長く議論されていたテーマである。また、スマナサーラ師は輪廻という考え方はブッダ以前から一般的だったのではなく、ブッダが発明して他宗教に広がったものだとしている。
スマナサーラ師の本はあまり読まないが、日ごろの努力で育てていかなければならない「慈悲」と自我そのものであるがゆえに否定されるべき「愛」の違い、親子=輪廻でたまたまめぐり合ったもの、生きること=痛みを避けようとすること、ブッダの「一切の生命を慈しめ」という(人間の本能的には無理な)言葉が強引に生きる価値観を生み出すことなど、斬新で目から鱗の話も多かった。
以上のように僧侶という生き方を考える上でも、仏教の哲学的な問題を考える上でも、南師とスマナサーラ師のぶっとんだ発想を学ぶ上でも、格好の書である。このお二人には、今後も定期的に対談してもっと掘り下げた議論をしてほしい。