『仏典をよむ―死からはじまる仏教史』

意外なことに、仏典の流行は時代によって移り変わっており、『歎異抄』のように近代になって急激に知名度を上げたものもあれば、逆に読まれなくなったものもある。現代において、読むべき書物は何で、伝統的な読み方をいったん脇において、どういう問題が取り出せるのかを、本書は探る。インド・中国・日本と広範な領域において、独創的な読み方の数々に目から鱗。
近年の研究は、古典を異質の他者と見て、その異質性を捉え直そうという方向に進んでいるという。現代人が思いも及ばないような発想を救い上げることで、近代を相対化し、現代をもう一度考え直すという著者の野心が全体に一貫している。
『遊行経』では、釈尊が自分の葬儀を在家者に任せ、弟子には修行に専念するように指示したのに、仏信仰が起こった事情が考察される。仏の死が、仏教の出発点となるのは、死後の存続にほかならない。
『無量寿経』では、阿弥陀仏のいる死者の世界と我々生者の世界の、関わらざるを得ないのに関わりを逃れる関係を説き、外在的な浄土が近代的合理主義で否定されるのに異を唱える。
『法華経』では、ミイラ仏である多宝如来と釈迦仏が並んで坐る(二仏並座)に、死者と合体して永遠の力を獲得する久遠の実仏を見る。
『般若心経』では、「AはAでない、ゆえにAである」という即非の論理を、A=「菩薩が衆生を涅槃に入らせること」とすれば、菩薩は衆生に執着せず、衆生の存在も変化するものであると捉えることで、合理的に解釈する方法を提示する。そして、「空」を、執着を去り原始仏教の実践性を取り戻す方向と、言葉の説明を全て否定した悟りの体験そのものに向かう方向で考える。後者はさらに、密教の新たな実在論につながる。
『摩訶止観』(智覬)では、「三界唯一心」という唯心論を、心を迷いの原理となるものか悟りの原理となるものかによって、唯識と如来蔵という展開に捉える。瞬時のどんな小さな心の動きにも、地獄から仏まで全てが含まれているという思想は、仏の性悪説につながるが、地獄の衆生を救うのに必要である。
『碧厳録』(圓悟)では、「不立文字、教外別伝」のエピソード(拈華微笑や頓悟の優位)が、南宗禅の優位を示すために、慧能の弟子が捏造したものだったことが説かれる。成立期の禅宗は「はっきりいってだいぶ怪しげで、いかがわしい」らしい。
『日本霊異記』(景戒)では、外来の宗教である仏教が、大陸の先進的な文化として入り、そのイデオロギー的背景として、既存の価値観を打ち壊していくさまを、蛇の扱いの変遷から読み取る。蛇はかつて神の使いだったのが、聖人に敗北する話が出てくる。
『山家学生式』(最澄)では、最澄と徳一の一乗・三乗論争が、中国の悉有仏性説・五性各別説にさかのぼる天台宗と法相宗の長い論争の延長線上にあることを示す。また、最澄が打ち出した真俗一貫の理念は、僧侶の社会参加を意識したものだったという。
『即身成仏義』(空海)では、日常生活が悟りだといっても、顕教では到達的でない深遠な世界だといっても、どちらでも分かりにくい即身成仏のジレンマと、死=成仏という死者供養の源泉に触れる。
『教行信証』(親鸞)では、信を如来蔵思想の外在化と捉え、即身成仏と思想構造がまったく同じことを明らかにする。環相回向(往生後の利他活動)は、自力ではないかという疑いを呈し、他力を別様に解釈する。弥陀の第十八願に対して「今まことに」に注目し、自分で努力しながら、ふと振り返ると、そこまで進んできたのがじつは自分の力ではなかったという解釈である。
『正法眼蔵』(道元)では、言葉を解体して言葉で表現できない事態を現出させようとする中国禅とは違って、言葉の深層の意味を問う根源的な肯定がなされているとする。また、修証一等論と本覚思想の奇妙な近似性や、「八大人覚」など十二巻本での原始仏教への回帰といった視点も提示される。
ほかに日蓮の国立戒壇の狙いや、キリスト教と仏教の論争を記すハビアンの書物など、なじみがない領域にも幅広い知識を得ることができた。これに対してそれぞれの領域の専門家がどのような解答をし、どういう議論が巻き起こっていくのか、興味は尽きない。これだけ読み応えのある本が、2000円足らずで買えるのはありがたいことである。

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