あるお寺さんで、寺院会計と護持会会計を一緒にして、総代が使い道を決めたいという声があったという。つまり、大きな建物を作るので、寄付を低く抑えるために和尚にもっと出させたいということらしい。
寺院会計とはお布施のことで、住職の裁量で経費・給与・貯蓄に分配される。護持会会計とは、いわゆる寺費のことで、本山に納めるお金や保険、境内の整備などに充てられる。どちらもたいていの場合、毎年決算額の作成が義務付けられているが、寺院会計のほうはわざわざ配布しないこともあって(請求があったときのみ開示)、中身をよく知らない人が多い(だから「坊主丸儲け」と言われる)。
その寺院会計の分配は、誰が決めるのが正しいのだろうか? お布施の使い道は誰が決めるべきか?
規則上では、宗教法人の責任役員である。責任役員は複数おり、代表役員である住職もこれに含まれる。住職以外の責任役員とは、法類の和尚さん、寺族、檀信徒代表などであり、総代であることが多い。つまり、住職と総代の協議の上で決めることになる。責任役員の議決権は平等なので、住職がイエスといっても総代全員がノーといえば通らない。反対も然り。
したがって「和尚さん、ちょっとお布施たくさんもらってるんじゃないの? その中から百万くらい今度の建物に寄付しなさいよ」という意見が総代の大勢ならば、住職は百万出さなければならないことになる。
上述のお寺さんではまさにそういう状況になっている訳だが、住職はこう言っていた。「そのお布施は、私がお経を読んで頂いて来たものです。お経を読まなくても皆お布施をお寺に納めて下さるなら文句は言わないけれど。」
お布施は確かに喜捨であって労働の対価ではない(その点で「お経料」「戒名料」という言葉は正しくない)。だが、住職の活動によって生まれたものであることも間違いはない。住職のお経や法話を聞いて、あるいは日ごろの振る舞いを見て、この人のもとにお金を送れば意義がある、世の中に役立ったと言えると判断する。でなければドブに捨てるのと変わらないことになってしまう。
であれば、そうやってお布施を生み出した住職の裁量を、不文律的に尊重してもらうほうがよいということになる。もちろん住職はそれに甘えて私腹を肥やしてはいけない。できるだけよい使い道を自律的に考えなければならない。このあたりが、会社とお寺の違いと言えそうだ。
問題は、住職が「この和尚なら使い道を任せても間違いない」という信頼を総代から勝ち得ているかであろう。パチンコ入り浸り、高級外車を乗り回し、夜は飲み屋を飲み歩きでは、お布施も泣く。
山形に帰ってきてから、私の収入はお寺一本になった。遊ぶのは副収入でですという言い訳はもう効かない。ストレスをためないように、かつ無駄遣いをしないようにバランスよく使っていきたい。