法事を行うにあたって、亡くなった人をどうみなすかという問題がある。大きく分けて2つあると思う。
1つ目は亡くなった人は浮かばれていないので成仏してもらうために供養しなければならないという考え方。
我々は六道を輪廻する存在であり、欲が深かったり、悪いことをしたりすれば餓鬼界、修羅界、畜生界、地獄に生まれ変わる可能性がある。人間の業は深く、無欲で悪事を全くしていないなどという人などいないから、その可能性は高い。
そこで、親族が本人に代わって善行を積み、その功徳を回向することで亡くなった人にポイントを貯めてもらい、そういう世界から脱してもらうために法事を行うと考える。
この代表がお盆で、餓鬼界に落ちた母を救う話が載っている『仏説盂蘭盆経』は、中国撰述の偽経であることが判明しているが、そのオリジナルであるパーリ経典『餓鬼事』の存在を先日知った。お釈迦様が、餓鬼界に落ちた亡者を救う方法を提示していたという。
たとえお釈迦様に遡る教えだとしても、このモデルは、宗教者にあるまじき恫喝に取られかねない。「ご先祖が苦しんでいます。お布施をして功徳を回向してください」というのは、遺族の不安を煽って儲けようとするインチキ新興宗教と変わらない。また、悪業を強調すれば「悪しき業論」に陥る恐れもある。「病気や貧乏で苦しんでいるのは前世に問題があったからだ」というのは、現状を肯定し社会問題や人権問題をうやむやにしてしまう。
そこで2つ目、亡くなった人は葬儀までに成仏しているという考え方がある。浄土真宗的な考え方に近いが、曹洞宗でも「衆生仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る」として受戒=成仏とみなす。「即」がポイントで、次第に成仏していくということではなくていきなり、そのままである。「頓悟」の伝統教説とも一致する。
このモデルでは、成仏のために法事をする必要はもうない。もっとも「修証一如」という考え方もあるから、法事をし続けている限り成仏しているのであって、法事をやめれば成仏も止まると言えなくもない。しかしそれも、供養する側とされる側が一緒に修行し、一緒に成仏するのであって功徳のやり取りをするのではない。
ではどうして法事をするのかというと、亡者に功徳などを与えるのではなく、逆に亡者から何かを頂く、あやかるためであると考えられる。頂くものは思い出であり、教えであり、恩である。仏壇やお墓で静かに手を合わせ、亡くなった人が今の自分を見たらどんな顔でどういう言葉をかけるだろうかとあれこれ想像する。「死者の声を聞く」という作業である。そしてそれを励みにして、恩返しのつもりでこれからの自分を生きていく。
葬式や法事は生きている人のためにするものだという意見もあるが、亡くなった人を偲ぶことができなければ手間隙をかけて葬式や法事などできない。亡くなった人はやはりそこにいてもらわなければならない。
一見してよさそうなこのモデルも、信じれば信じるほどモラルハザードの恐れが高まる。どんな悪いことをしていても、自堕落な生活でも、死んですぐ成仏できるなら、善い生き方など目指さなくてもよい。だったら他人の迷惑など顧みず、好き放題のことをして死を迎えようということになってしまう。もっとも、このモデルを聞いてタガが外れるほど、普段から神仏を畏れて生きている人も少なくなってきているのかもしれないが。
この頃の法事の法話は、2つ目のモデルに基づいている。一番の理由は、遺族の安心が故人の成仏につながると考えられるからである。循環論法のようになるが、故人が成仏していると和尚さんが言えば遺族は安心し、遺族が安心すればそれを見た故人は成仏できる。だから成仏を先取りするのである。