映画『おくりびと』のもとになった『納棺夫日記』に、僧侶がお葬式を行いながら死者と向き合っていないという批判があった。お葬式は遺された人のためだけに行うという僧侶もいるが(『坊主のぼやき』)、死者と真正面から向き合わずして、どうして遺された人に救いの手を差し伸べられようか。
とはいえ、数をこなしているうちにどうしても慣れっこになってしまうのは避けがたい。そこで、死者と向き合えるような仕組みを自分に課してきた。そうすることで、意識が低いときでも(例えばお葬式があまりに続いてうんざりしてきたときなど)、否応なく向き合わせられるというわけだ。しかし惰性というのは恐ろしいもので、新しい手立てを次々と考えないとすぐ効かなくなってしまう。
まず住職になった当初に心がけていたのは、喪家ではゲラ笑いしないこと。当然のように見えるが、冗談や笑い話をする僧侶も少なくない。式中だけしかめっ面をしていて、控え室に戻った途端ゲラゲラというのは、批判が寄せられるところである。家族が亡くなった気持ちで過ごせば、顔を作らなくても自然に相応しい顔つきになる。そのため何度も心の中で何度も死んだことになった家族には悪いけれども。
しかし笑わなくても、遺族の悲しみにはどうしても無感覚になりがちだ。そこで『追弔御和讃』の奉詠を始めた。「その名を呼べば答えてし笑顔の声はありありと……」歌詞をかみしめながらお唱えすることで、大事な人を亡くした気持ちを起こし、その気持ちにどうやって寄り添えるかをじっくりと考える。聴いている遺族もこのお唱えでだいぶ心の垣根を取り払って下さる気がする。
ところが『追弔御和讃』も、何度もお唱えしていると歌詞をかみしめなくてもすらすらと出てくるようになってくる。そこで1年前くらいから始めたのは、枕経の後で故人の額に手を当て、南無釈迦牟尼仏、南無観世音菩薩と唱えることだった。この行為は、誰に教わったものでもないが、正法眼蔵道心の巻の「またこの生のをはるときは、ふたつのまなこ、たちまちにくらくなるべし。そのときを、すでに生のをはりとしりて、はげみて南無帰依佛と、となへたてまつるべし。」という文言に基づく。
死者に直接触れるというのは、死の実感が湧く一番の方法である。ある人はもう冷たく、ある人はまだぬるいが、確実の私の指から熱を奪っていく。その冷たさは、帰ってからもしばらく感覚として残るくらいだ。そこで私は死者から大切なものを頂く。それは「生死事大 無常迅速 各宣醒覚 謹莫放逸」という言葉の実感である。私もやがてこうなる日がやってくる。それまで虚しく時を過ごすまい。生きる覚悟である。
この方法もいつまで私の自覚を促し続けられるか分からないが、その先はというと過激になりそうで怖い。
今日の仏教会で聞いた話。田舎の火葬時間は90分、時間をかけて焼くので骨がきちんと並んで出てくる。でも都内はその半分、半分焼けたところで魚を裏返すようにして焼け残った部分を焼くので、骨がずれてしまうのだそうだ。これで焼き魚が食べられなくなった方がいたらごめんなさい。