笑顔の絶えない人、常に感謝の気持ちを忘れない人、みんなの喜ぶ顔が見たい人、いつも前向きに生きている人、自分の仕事に「誇り」をもっている人、「けじめ」を大切にする人、喧嘩が起こるとすぐに止めようとする人、物事をはっきり言わない人、「おれ、バカだから」という人、「わが人生に悔いはない」と思っている人―多くは望ましいとされる美徳に釘をさす。
その根底にあるのは、自分の頭で考えず、世間の考え方に無批判に従う怠惰な姿勢、多数派の価値観を振りかざし、少数派の感受性を踏みにじる鈍感さである。感謝の気持ちを忘れないのはいい。問題はその感謝を他人に当たり前の顔をして期待することだ。
「ひとに迷惑になることだけはするなよ!」と座右の銘のように言い続ける人がいる。これを筆者は思考の脳死状態と断ずる。ある人にとって迷惑でも、別の人にとっては歓迎すべきことかもしれない。大多数にとって迷惑になることというなら、少数派は切り捨ててよいのか。そもそも私たちが生きるということは、他人に迷惑をかけて生きるということなのだ。かといって自殺も膨大な迷惑。ではどうすればいいのかを思考しなければならない。そこまで考えれば、「ひとに迷惑になることだけはするなよ!」などと簡単には口にできないのである。
卒業する学生に対するはなむけの言葉が心に残った。この世は誰でも知っているように、どんなに努力しても駄目なときは駄目だし、たえず偶然にもてあそばれるし、人の評価は理不尽であるし、そして最後は死ぬ。それが社会であり、人生の真実である。普通のはなむけの言葉の各文の後に「どうせ死んでしまうのですが」というワンフレーズを付け加えてみせ、その後に著者のはなむけの言葉を載せる。「個々人の人生はそれぞれ特殊であり、他人のヒントやアドバイスは何の役にも立たない。とくにこういうところに書き連ねている人生の諸先輩の「きれいごと」は、おみくじほどの役にも立たない。(中略)どんな愚かな人生でも、乏しい人生でも、醜い人生でもいい。死なないでもらいたい。生きてもらいたい。」
自分で悩んだり思考したりせずに人にあれこれと語ることはできないということを強く感じた。あと哲学の先生が大学から給料をもらっているのは恥じるべきだというのにも同感。「哲学のような何の役にも立たないことを教えて金になるのがそもそものまちがいです。」
第一版は立ち読みして内輪話(小谷野敦氏との喧嘩とか)に飽き飽きした覚えがあるが、文庫版になって読み返してみると、内輪話も具体例として説得力があった。