『高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院』

私も当事者であるだけにかなりショッキングな本だった。
1991年から始まった大学院重点化。これは十八歳人口の減少が始まる直前に、文科省と東大法学部の主導で始められた。その狙いは、「成長後退期においてなおパイを失うまいと執念を燃やす”既得権維持”のための秘策」であった。
就職超氷河期も追い風となり、その結果1991年には10万人いた大学生が2004年には24万人。中には教授に薦められるまま何となく院生になってしまった人も少なくない。その結果生まれたのが、博士号を取得してフリーターという希望のない大量の30代、40代である。
各大学はいよいよ入学者が減少し、人件費抑制を余儀なくされている。新しい専任教員を採用せず、非常勤講師で授業を行う。文科省による「ポスドク一万人計画」も焼け石に水。数が足りないのと、任期が短いことで一時的な救済にしかなっていない。
私の仲間でも「ドクターコンビニバイト」なんて冗談を言っていたが、それがもう現実になっている。本書でも塾講師からパチプロまで、さまざまな仕事で糊口をしのぐ博士たちが紹介されている。行方不明や自殺者も多いという。結婚だってままならない。
「子連れの夫婦などは、日中から街をふらふらと歩いている「博士」を見つけると、危険なものを見つけたかのように反応し、我が子を自らの背中にサッと隠すことも珍しくない。「アアは、なっちゃだめよ」との声が聞こえてくるのは、こんな時だと、博士たちは涙ながらに語るのである。」(p.135)
筆者は、この状況を打開すべくいくつかの提案を行っている。ひとつは「ボトムアップ人間関係」への寄与。医者と患者、先生と生徒、介護士と介護される人といった上下関係が生まれやすい人間関係に入り、専門知識を生かして意思を疎通させ、平等な人間関係を築く手伝いをするという。例えば宗教界で学者・僧侶と一般の間を結ぶひろさちや氏のようなものだろう。
もうひとつは学問は学問、仕事は仕事と割り切って良識ある市民として生きていくやり方。学問自体ではなく、研究の過程で獲得した技能やフレームワークを応用して自分の生き方にするものである。
いずれも収入に直結するものではないが、少なくとも自分のアイデンティティーを確立させて道を開くものである。今や出口はそれしかない。「取っても食えないが、取らないと気持ちが悪い」点で「足の裏の米粒」に喩えられる博士号、所詮はその程度のものなのだと認識を改める必要があろう。
この状況が知れ渡れば、大学院も就職や職種の期待をもつ若者でなく、一度社会に出た経験豊富な人たちの比率が上がると筆者は予想する。すでに私の知り合いも年配の人が大学院で学んでいるし、大学すらそうなりかけているからおそらく事実だろう。これから10年後、20年後の大学のありようが大きく変わるのではないかと思った。
研究者の端くれとして迷っている私も、もう一度自分が歩いている道を見つめなおしたくなった。

1件のコメント

  1. 書評―『高学歴ワーキングプア?「フリーター生産工場」としての大学院』

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