生きているという価値

今日の夜に予定されていた御詠歌の練習会は、参加者4人という寂しい状況だったが難曲の『歓喜』を心ゆくまで練習できて満足。
今年、師範養成所を卒業したばかりの新人さんが現れて嬉しかった。師範養成所とは、全国の若き僧侶が2年、計30日間にわたって研修する梅花流の虎の穴。私も数年前にお世話になった。寝食を共にしてひたすら御詠歌に取り組むうちに、強い絆が生まれる。
休憩中に聞いた話だが、今期の師範養成所は、期間中(研修中ではないが)に1人お亡くなりになったのだという。私と同じくらいの年令で急逝。
そこで研修中に仲間は遺影を飾り、毎朝供養のお経を皆であげて、食事も毎食お供えし、遺影の前に法具を開いて研修する。最後の祝賀会は遺影の前に酒を継ぎに行く人が絶えなかったそうだ。
実に切ない話であるが、ここまで宗教団体らしい行動は、集団になって感情が増幅したのかもしれない。でもこんな危なっかしいとさえ思えるぐらいの情の熱さが、僧侶として大事な資質なのだろうと思った。
振り返るに最近の私は、僧侶の世間への説明責任ということに意識が偏りすぎて、感情の共有とか吐露といったものに重きを置いてこなかった気がする。
涼しい顔をして他人事みたいに説法しても、ついてくる人は少ないのだ。法話ひとつとっても、絶えず自分の問題として問い続け、もっと皆と一緒に泣き笑いしなければと思った。反省。
それにしてもそんな年で世を去らなければならない人がいる一方で、同じくらいの年令の私がのほほんと御詠歌を続けられているのも何かの巡りあわせなのだろう。生きているという、ただそれだけで価値があることをもう一度かみしめなければなるまい。
名も知らぬその若き同志に合掌。

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