「お寺の常識、世間の非常識」ということは多々あるが、お寺はお寺の論理を説明するのに、詭弁を弄することがある。
「学校を出たばかりの若い者に百万、二百万の車を買ってやるクセに、末代まで残る戒名になんでゼニ金を惜しむんだ」(村井幸三『お坊さんが困る仏教の話』)
これと似たようなパターンで、「この世に生まれるときには何十万と出すんだから、この世を去るときにもせめてそれくらい出しなさい」というのも聞いたことがある。家族である以上、生きていても死んでいても平等に扱えという論法である。
これを修辞学では「類似からの議論」といい、すでにアリストテレスも触れているほど昔からある(『弁論術』第2巻23章)。前者はさらに、若者より年長者が丁重に扱われるべきであるという論拠(「なおさら」論)も加えて論法を強化している。
しかし、どこまでを類似と認めるかによって、この論法は説得力をもたなかったり、逆に反論の余地もある。
「車代(出産費用)とお布施はその目的も性質も全く違う。そういったものは関係ないので比較にならない。」
「もし同じにしろというなら、子どもや孫のことでお寺にお布施をしているわけではないのだから、亡くなった人のことでお布施をしなくてもよいことになってしまう。」
さてこの判定だが、宗教的な行為であるお布施が三輪清浄(お布施、お布施を出す人、受ける人に私利私欲があってはならないという教え)を謳う以上、一般的なお金の使い方とは一線を画すわけだから、安易に同列に並べるお寺のほうが負けだと思う。仏教でお布施は清らかなものだとされているのに、お寺のサービスを半ば強制的に買わせるのでは清らかになるはずがない(インド論証術でいう定説逸脱-apasiddhAntaという敗北の場合)。
実際はお寺のほうが立場が強いことがほとんどだろうから、まともに反論することはまずできないだろう。「もし出さなかったら、どうなっても知りませんよ……」などと明言しているわけではないが、これは「威力に訴える論証(appeal to force)」または「恐怖に訴える論証(appeal to fear)」という詭弁にあたる。お寺がこんなことを言えば二重に詭弁を犯していることになるのだ。
論理的に矛盾していても力で勝ってしまうお寺だが、檀信徒の信仰をなくすという点では負けているともいえる。さらに言えば、お寺がお布施の金額に口出しするのは、利益誘導と捉えられても仕方ない。
寺院を維持していくのにそれなりのお金が必要なのは間違いないが、その前に十分な信仰と信頼が大前提になっているということを肝に銘じて、日々の教化にいそしみたい。