ブッダを生涯通して神格化しようとする仏典から距離を置いて、成道前のブッダ=シャカを人間的な迷いや疑いの中にあった存在として捉えなおし、家族も子どもを捨てて「家出」した本心を探る。
南伝によればシャカは長男ラーフラが誕生したその夜、または御七夜に家を出たとされる。一方北伝ではシャカが家出をした29才のときに妻が妊娠し、成道した6年後に誕生したという。
筆者は北伝を重視し、ヒンドゥー教の四住期の3番目に当たる林住期やサティヤグラハ(禁欲の実践)を実践したマハートマ・ガンディーの生涯を重ね合わせて、シャカの出家は趣味みたいなもので、その後もときどき家に帰ってきて妻と交わっていたと考える。その結果、成道の頃に子どもが生まれたのであると。
タパスを貯めるための苦行(禁欲が基本)をはじめに求めたブッダが、ときどき妻と交わっていたというのは俄かには信じがたい話だし、当然仏典のどこからも支持されない筆者の想像に過ぎないが、シャカをあくまで人間と見る視点は面白い。
しかし、肝心の「ブッダは、なぜ子を捨てたか」について筆者の答えは「自灯明、法灯明」という程度で、すぐさま「ブッダに捨てられたラーフラは、どうやって立ち直ったか」という話に変わっている。
さらに、その後は仏教とはどんな教えか、日本に伝わった仏教はどう変容したかというようにテーマからどんどん脱線し、しまいには現代においてブッダの存在を感じられるのはどこかというように信仰告白のようなものになっている。
これでは、本のタイトルは読者を欺いていると言わざるを得ない。
ブッダは、なぜ子を捨てたかというテーマを学術的に考察するならば、インドの宗教哲学全般の基調をなす解脱論(筆者もインドの無我VS日本の無私で少し触れているが)や解脱の条件(知識か、ヨーガか)、さらに当時のインドの社会構造や規範(マヌ法典に見られるような)をもっと掘り下げねばなるまい。
また、筆者が「〜ではないか」と仮定に仮定を重ねるならば、いっそヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』のように小説仕立てにしてもよいだろう。学術的に根拠があるような言い方をしつつ、想像でものを語るのは全く頂けない。
大学者だからこそ、論がこんなに筋道立っていないのはよくない。少しお年を召されたのかな。