他人の意図は知り難し

仏教では、言葉による伝達は本来あやふやであるという。言葉の伝達が成功するのは、話者の意図を正確に読み取ることができたときだけだが、そもその話者の意図を正確に読み取ることが容易ではない。他人の意図は知り難しである。同じ言葉でも、話者によって、また聞く人によってさまざまに読み取ることができる。
「察する」文化の日本ではその度合いが強まり、どうしてそこまでと言うほど深読みされることがある。それは完全に話者の意図を超えている。そんなつもりで言った・書いたんじゃなくても、聞く人・読む人がそう聞く・読むならば、ときには大問題にまで発展しうる。
ここ数日、そういう危うさを感じることが何回かあって、そのたびに自分の配慮の足りなさを痛感した。配慮なんて、いくらしてもしすぎると言うことはない。その底なしの感じに深い恐怖を覚えた。
誤解のないように話す・書く、つまりいろいろな意図で読む人を想定して先手を打っておくためには、公式に出す前に誰かに聞いてもらうこと、読んでもらうこと、そして意見を伺うことが大事だと思う。人が増えれば気づくことも増える。記事しかり、論文しかり、多様な価値観が共存するこの社会に何かを発信する場合、こうした共同作業が不可欠だとさえ、言えるのではないか。

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