石窟寺院めぐり

 日本人10名ほどでバスをチャーターしてプネー近郊の石窟寺院めぐり。
 石窟寺院とは断崖になっている岩山に横穴を掘って作った寺院。ストゥーパが置かれた本堂(チャイティヤ)と、僧侶たちの住まい(ヴィハーラ)からなる。時代は紀元前200年〜紀元後200年まで上座部が作ったものが第一期,それからしばらく空いて紀元後5〜7世紀に大乗仏教が作ったものが第二期.あとは場所によって金剛乗(密教)や,ジャイナ,ヒンドゥーが後代になって相乗りしたところもある.
 第一期は偶像崇拝を避けて仏像が彫られず,本堂でもストゥーパ(卒塔婆〈そとうば〉の語源となったモニュメントで丸いドーム状の置き物)が本尊になっていた.シンプルな作りになっている.第二期になると大乗仏教徒が盛んに仏像や菩薩像を彫り始める.その上豪奢な彫刻まで残し,壮麗な寺院となった.どちらがいいかは,好みである.
 プネーやムンバイのあるマハーラシュトラ州というところはデカン高原の入り口になっていて,こうした断崖が多いため,石窟寺院が盛んに作られた.そして山の高いところや森の深いところに作られたのが幸いして,破壊を免れて現在に至る.これまでにマハーラシュトラ州全体で23箇所,合計900の石窟が発見されているという(うち400はJannarというところに集中しており,あとはだいたい1箇所あたり10〜20ぐらいずつ).
 有名なのはアジャンタとエローラで,高校の世界史でも習うほどだ.その2つもプネーから1泊すれば十分回ることができる.だが今回訪れることになったのは,通好みの石窟寺院,カルラ,バジャ,ベルサ,シェラルワディという4箇所.いずれもムンバイとプネーの中間に位置し,駐在員の方々はよく行っている様子だった.
 険しい山を登った先にある,当時の仏教の繁栄を物語る壮大な彫刻にしばし心を奪われた.
カルラカルラ(Karla/Karli)
 実は本堂の大きさがインドで一番大きい(525平方メートル)というところなのである.2番目に大きいアジャンタでも369平方メートルで,群を抜いているのが分かる.ただ建設は紀元前1世紀くらいと,やや新しい.他の寺院に負けじと頑張って掘ったのだろう.
 現在はヒンドゥー寺院が出店していて,そこへお参りに来る人と,ピクニックに来る若者・家族連れで大いに賑わっている.中腹まで車で行くことができ,あとはちょっと登るだけで見晴らしのいい高台に上がれるのもいいらしい.入場料はインド人5ルピー,外国人100ルピー。プネーに住んでいることを主張したが,聞き入れられなかった.「インドに高い税金払ってんのに,またここでたくさん取られるのは解せない!」と駐在員の方が言っていた.
 本堂に入ると中央奥にストゥーパがあり,両脇に柱が並んでいる.柱にはブラーフミー文字(お釈迦様の時代から全国的に使われていた文字).後で調べたら,寺院への寄進者の名前が彫られているらしい.どこのお寺も同じだなあと思う.当時はここに僧侶が住まい,在家信者の寄進で暮らしていたという.
 階段を登る参道はずっと両脇に商店が並び,お供え物や軽食,音楽テープ,サリーまで売っている.人もわんさか集まり,駐車場は満車.ムンバイから来たという高校生の一団などがいて,口笛を鳴らしたりしていた.にぎやかさが印象に残る場所だった.

バージャバジャ(Bhaja)
  カルラの近くにある寺院.こちらは最初から徒歩で行くほかなく,かなり登ったところにある.でも石の階段がよく整備されており,登るのに苦労はない.登ったところでまたもや入場料100ルピー.
 ここは小さいリンガ(シヴァ神の象徴)が申し訳程度にあるだけでヒンドゥー寺院がなく,インド人で来ているのは単なるピクニックである.それでもなかなか賑わっていた.お年寄りも見かけられ,あれだけの階段をサンダル履きでよく登ってきたものだと感心する.
 駐在員の松田さんが仰っていた通り,規模は小さいながらも趣のあるところだった.むき出しの岩がかなり残っており,また掘ったところが一部崩れていて,そのため断面図のように構造が分かって面白い.また,14基のストゥーパがずらりと居並ぶところも面白い(普通はひとつの本堂に1つずつ).ストゥーパ屋さん? それとも過去七仏・未来七仏? 不思議だ.

バルセベルサ(Bedsa/Badse)
 少しプネー方面に近いところにある寺院.途中から舗装がなくなり,村を抜けたところでバスを降りると,またしも長い長い階段を登る.まさに今階段を建設しているところで,8割方完成していた.入場料はなかったが,階段が完成した暁には100ルピーになるのかもしれない.そうでなかったらおかしいと思えるほどの立派な階段だった.
 この寺院は,最初期である紀元前2世紀に作られたものだという.その後大乗仏教が5世紀に入って彫刻をほどこした.前方の岩(写真右側にちらりと見えている)を残したままで奥だけきれいに整備した点が特徴.そのため中は日がほとんど当たらず,とても涼しかった.幹線道路からも遠く,山も険しく,しかも入り口が狭くなっているという条件が揃っており,保存状態のよさは抜群.彫刻もひとつひとつ非常に鋭利な形で残っている.
 11月末とはいえ,日中の温度は30度を超え,乾期で太陽の照りつける中で階段を延々と登れば汗だくになる.もう3つ目ということもあり,登ったところでみんな腰を下ろしてへたっていた.
 しかしここにも家族連れ.赤ちゃんを連れてよくここまで登ってきたものだと思うと,インド人根性にまたもや関心.空気はうまいし,見晴らしはいいし,涼しいし,上り下りは健康にいいしで,石窟寺院は人気の観光スポットなのかもしれない.

シェラルワディシェラルワディ(Shelarwadi)
 プネーから20キロほどしか離れていないところにある小さな寺院跡.ここは現在,シヴァ寺院になっていた.入り口に牛の置き物があり,そこにいるおばちゃんに聞いても「仏陀?ストゥーパ?ヒンドゥー寺院ならあるけど…」という反応.小島さんが新聞社に問い合わせて調べておかなかったら,引き返していたかもしれない.
 小さいとはいえ,山をずっと登っていくことには変わりがない.みんなかなり疲れている様子.ゆっくり登ろうかな…と思ったところに,元気のいいおじさんが犬を連れて現れた.「ここは何のお寺ですか?」「偉大なるシヴァ神」と答えつつ,ものすごい速さで登っていく.私も負けじと付いていった.登りながらおじさんは「シヴァシャンバウ…」とシヴァ神の名前を唱え続けている.犬もすたこら階段を登っていく.付いていくうちに.勢いであっという間に寺院まで来てしまった.
 本堂だったと思われるところは見当たらず,僧院跡を改造してシヴァ寺院にしていた.リンガの周りを参拝し始めるおじさん.どうも毎日来ているのではないかと思われる.
シェラルワディの頂上 その奥に一歩足を踏み外したら崖の下という険しい道があり,そこを登っていくとまたもや僧院を改造したやや小さめのシヴァ寺院が現れた.こんなところに僧侶が住んでいたなんて…と思って横を見ると,さらに登る道があるではないか! 不安になりながらも,やたら危険な道をそろそろと登っていく.すると次第になだらかになり,山の頂上が見えてきた.
 何とここに,一件の寺院が建っている.そしてヒゲの長い聖者と,子供連れのおじさんがいた.あっけに取られていると,聖者が「入れ入れ」というので寺院に入り,そこでまたリンガを見る.お参りして出てくると,水を出してくれた.とても怪しくて飲む気にならなかったが,聖者が「大丈夫,濾過しているから」と(英語で)言い,しかもみんなが見ているので仕方なく飲む.なかなか美味しかったし,お腹も大丈夫だった.
 そうしているうちに,他の人たちもやってきた.聖者は珍しい来客を喜び,チャイを作り始める.それを飲みながらしばらく歓談した.聖者は,何とこんな山のてっぺんにある寺院に住んでいるという.サンスクリットはわからなかったが,何となく心の中を見透かされているような気がした.
 歓談していると「シヴァシャンバウ…」とまた聞こえてきた.先のおじさんが下からお参りを終えてここまで登ってきたのだ.あの命がけの険しい道も彼にとっては日課になっているようだ.帰り道もそこを通るのかと思って聞いてみると,安全な近道があることが判明.おじさんが案内してくれ,そこを通って帰る.おじさんも,帰りはそこを通るようだ.
 寺院自体は見るべきものがほとんどなかったが,人との出会いがここで一番の収穫だった.できればまたあの聖者に会いに行きたいものである.
 帰りはもうひとつ,仏教学者アンベードカル博士の寺院をちょっと見学.図書館で生活し,1日20時間勉強していたというマハーラシュトラの偉人である.新仏教を代表する近代的な寺院で,その大きさに驚いた.
 こうして解散は夜7時30分.実に10時間に及ぶ旅行で,階段の上り下りの連続はみんなこたえた模様.私はというと,自転車通学とヨーガのおかげかそれほどつらくなかった.インドに来て健康になったのかもしれない.またもやバスのチャーターからルートの下調べまでお世話になった小島さんにはとても感謝したい(写真提供:小島氏(シェラルワディ1枚目)).

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