ハウスボートで過ごす一夜は、幻想的だった。
室内の凝りに凝った調度品はどれをとっても素晴らしく、暗めの照明に照り映えるそのさまは、最高の雰囲気だった。一人できたのがもったいない。叔母さんが取ってくれた最高級の部屋、しかも3ベッドで5人寝られる大きな部屋に一人でいるのはとても寂しい。タヒルさんが「寂しいなら一緒に泊まろうか」と言ってくれたのを、それもどうかと思って断ったけれど、ここは一人で過ごすところではないと思う。一人では暇を持て余してしまい、本を読もうにも照明が暗く、結局ぼんやりと過ごすしかない。
それに前の日は荒れ模様の天気だったので湖上は涼しいというよりもむしろ、寒い。朝から毛布を一枚多めにかけてもらったベッドの中にずっといた。ボーイさんが親切で、ご飯を食べ終わると、「ライスは美味しかったですか? カレーは美味しかったですか? ティーは美味しかったですか? それはよかったです、ありがとう」とメニューひとつひとつを訊いてくる。「オーケー、サンキュー」と言うとき、頭を思いっきり横に振るのが面白い(インドの「はい」は、首をかしげるような感じで横に振る)。
シカラに乗って陸に上がると、夢から覚めたような気分になった。たくさんの観光客が行き交い、警察の前では武装警官が10人以上警備している。ここ2,3年は事件がないというが、テロ対策で警察の警備は厳しい。警官は防弾チョッキを着て大きな銃を持っており、装甲車もたくさん見かける。湖の周りにも、50メートルに1人ぐらいの割合で武装警官が配置されていた。
タヒルさんが車でやってくる。シュリナガルに来た最大の目的である写本調査が今日の仕事。バラモン教・仏教はかつてカシミールで独自の発展を遂げ、多くの哲学書がここで記された。今から1,000年も前の話である。こうした哲学書は、手書きで紙や椰子の葉に写すことで後代に伝えられた。写本というのはこの手書きで写した紙のことで、たいていは書かれてから100年以上経っている貴重なものである。写本調査はインド哲学研究者にとって不可欠の仕事で、どこに何の写本があるか情報交換しながら探している。
ここシュリナガルのカシミール大学には、『ニヤーヤ・マンジャリー』という書物の写本が3つあるとイタリアの研究者が報告していた。しかし、90年代の紛争のため足が遠のき、その写本の存在は伝説とさえ言えるほどになっていた。本当に存在するのか、どういう状態で保管されているのか、それを確かめるのが今回の主要な目的である。
カシミール大学は、素晴らしく整備された美しい大学だった。きれいに刈り込まれた並木、色とりどりに咲き誇る見たこともない花々、その中に規則正しく点在する各学部の建物。プネー大学の森に慣れていると、ここまで計画されて作られた壮大なキャンパスに感動してしまう。文学部は一番奥の建物で、サンスクリット学科はさらにその奥にあった。アラビア語学科の大きな看板の下に小さい看板がある。これだけで力関係が分かるというものだが、先生は主任教授と講師の2人だけで、学生も5人しかいないという。
ここで教授にあいさつをして図書館に向かう。図書館は7階建ての大きな建物で、蔵書量は驚くほど多い。しかし未整理で、その上本棚が倒れて散乱しているのもあり、何がどこにあるか全然分からない。サンスクリットの本はヒンディーとごちゃ混ぜになっていた。写本もこの調子かと暗澹たる気分になる。
しかし写本は別の部屋で厳重に管理されていた。係員が鍵を開けて中に入る。カタログを開くと、あっけなく『ニヤーヤ・マンジャリー』の写本が3つ、確認された。しかも同じカシミール人の著作である『ニヤーヤ・ブーシャナ』まである。カタログになければ虱潰しに探さなければならないと思っていたのでヒャッホーと小躍りしたい気分。番号を言って出してもらった写本は、いずれもシャーラダ文字(8〜10世紀にカシミールで用いられていた文字)という、貴重なものだった。
問題はその次。写真撮影もコピーも不可なのである。つまりそこで見るしかない。デジカメでフラッシュはたかないと言っても「規則だから」とどうしても聞いてもらえない。仕方なく、翌日から毎日通って書写することになった。書写と言っても、コンピュータにあるデータと照合するというものでそれほど疲れる仕事ではないが目は疲れる。昨年の写本学で習ったシャーラダ文字が早速生きることになったのはよいが、普段見ない文字なので時間もかかる。どうしたものだろうか。
それはさておいて、大学を後にしダル湖を遊覧。また警察のシカラに乗り、日が長いので8時過ぎまで湖上でのんびりしていた。湖上でも物売りの舟がひっきりなしにやってくるが、さすがに警察のシカラに近づいてくるのは少ない。少女が蓮の花を売りに来ただけだった。高い山と深い森に囲まれた湖の上をゆらゆら。
この日はハウスボートをキャンセルしてタヒルさん家にステイ。11時ごろに夕食を食べて長い一日は終わった。
今日の観光スポット
ハズラットバル・モスク
ムハンマドの髪が安置されているという重要なモスク。祈りをささげていたら髪が天に向かって伸びたという伝説がある。現在あるものは改築されたもので、もとはムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハンが建設した歴史ある建物。
カシミール大学の近く、ダル湖畔にある。セキュリティーチェックが厳しく、鞄の中を全部見られた。モスクの中に入るときにもさらに身体検査がある。
クッタル・カーナ
「鳩の家」と呼ばれるマハラジャの別荘地。ダル湖の中央にあって、周囲は蓮畑で囲まれている。水上警察が駐留している。
チャールチナリ
ダル湖に浮かぶ小さな島。チナルの木が4本立っていることから名づけられた。ぽつんと浮かんでいるので湖岸からでもよく見えるが、シカラでしかいけない。昔はよく映画撮影に使われたという。レストランハウスボートあり。