インド最大規模の石窟寺院、アジャンタ、エローラを見に小旅行。石窟寺院は11月にプネーの近場を見たが、アジャンタとエローラは高校の世界史でも習うほどの有名なところだ。プネーに住んでいるなら1度は見ておこうと思っていたが、一人で行くのはなかなか億劫なもの。そこへカナダの大学から来ている陳先生の誘いでチャンスがやってきた。もうひとり、大学に研究に来ている四川大学の楊先生も一緒になり、3人での小旅行となった。
陳先生は仏教哲学が専門。中国生まれだが香港、台湾、ドイツを経て現在カナダで教鞭とをっている。旅行前には「瑜珈行派の識転変」「仏教とポストモダニズム」と題して2日連続の講演を行った。日本の仏教学者にも詳しく、日本語も少し話される。講演でもしょっちゅう「長尾氏が…」「上田氏の見解は…」と日本人学者を引用してインド人をうんざりさせていた。一方楊先生は35歳という若さで四川大学の南アジア研究所インド経済研究室の主任。中印戦争以来インドと中国は仲が悪く、インドで中国人を見かけるのは珍しいが、交流がないわけではない。
プネーからアジャンタまでは約300キロ。だいたい東京から山形の実家に行くくらいだ。バスで6時間、アウランガバードという都市からタクシーをチャーターして2時間。移動にまる1日かけて、2泊3日で行ければのんびりした旅行になっただろう。しかしさすが体力のある漢民族のこと、陳先生のプランは夜行バスで行って、まる1日見て、そのまま夜行バスで帰ってくるという強行軍だった。0泊1日、つまり日帰りである。
夜11時30分発のバスはシヴァージーナガルというバスターミナルから出発する。バスターミナルでは、トイレの蛇口をひねったら水が噴き出すというハプニングで上半身を濡らしたままバスに乗り込む。6時間も乗るのに120ルピー(250円)のバスは少し年代もので、道路のデコボコを客席に忠実に伝えてくれる。しかも目の前のテレビではヒンディー映画で歌えや踊れ。こんな揺れてうるさいところで眠れるか!と思っていたがそのうちウトウト。盲人用のデコボコタイルの上を車で走る夢を見た(って現実とほとんど変わらないが)。
アウランガバードに着いたのはまだ夜が明けない午前5時。かなり寒い。それでもバス停の周りには客待ちのリキシャーがたむろしていた。陳先生は早速リキシャーの運転手を捕まえてタクシーをハイヤーする交渉をしている。普通リキシャーとタクシーは競合関係にあり、リキシャーの運転手にタクシーのことを聞いても仕方ないのだが、ここはアジャンタをめざす観光客が多いのだろう。リキシャーの運転手でもタクシーの手配に応じる。そうでなければ午前5時に路頭をさまようことになっただろう。
ハイヤーは結局1日1300ルピー(2750円)ということになり、タクシー乗り場までリキシャーで連れていってもらう。そこで朝食のパンとチャイを購入し、ひとまず空腹を満たす。やがてタクシーは10分ほどで来た。リキシャーの運転手が「My
brother」と呼んだタクシーの運転手はいかにも今起きたばかりという感じで、機嫌が悪そう。バックミラーにはコーランのホルダーがかかっており、イスラム教徒のようだった。インドでは「バード」と付く都市には特にイスラム教徒が多いと聞く。話の取っ掛かりが付かないまま、再び眠り込んでしまった。
それにしてもデカン高原の朝晩の冷え込みは予想を上回るものがある。昼は30度を超えるのに、夜になると15度ぐらいにまで下がる。長袖一枚だけではちょっと耐えられない。その点、陳先生と楊先生は3枚も4枚も重ね着をして完璧装備になっていた。しかも寒いカナダから来ている陳先生は車の窓を開けてご機嫌に楊先生とおしゃべり。私の方はというと、少しでも暖を取ろうとかばんを抱いて眠っていた。もともと寒がりではあったが、めっぽうインド人体質になっているようだ。
アジャンタに着いて、ホリデイリゾートという州政府公営の宿泊施設で朝食。仏教徒だというウェイターから話を聞くと、アジャンタに来る外国人観光客のほとんどは日本人だとのこと。こんな遠くまで来る日本人がそんなに多いとわかったのは実際にアジャンタに着いてからである。ウェイターは私が日本人だと知ると、日本をやたらほめる。「カメラ、ナンバー1!」そして中国人もいると知りながら「中国? ノーグッド!」とけなす。冷や汗が出た。楊先生は後で「彼は30年前の中国しか知らない」と憤慨していた。
さて朝食をとって石窟寺院の入り口まで行くと、タクシーを置いてバスに乗り換えなければならなかった。頂上は駐車場がなく、ふもとから4キロを州政府の観光バスがピストン輸送しているのである。バスは客がだいたい埋まると出発する。頂上に着いたのは9時30分ころだった。こうした特別バスに乗るとだんだんわくわくしてくるものだ。窓口で拝観料250ルピー(約800円)を出し、山を登り始める。
アジャンタには紀元前2〜紀元後7世紀にかけて穿たれた合計28の石窟寺院がある。地理的に入り組んだところにあり、仏教が廃れた後には現地でもずっと忘れ去られていた(それだけインドは広いということ)。19世紀にトラ狩りをしていたイギリス人が偶然発見し、今日の脚光を浴びるに至る。1000年以上誰も近づかなかったことから彫刻も破損せず、美しい壁画が残っている。インド政府は壁画を化学処理したり、崩れそうな部分の保安作業をしたりと、各所で修復作業中だった。
それにしもまず、これだけの岩をよく掘り出したものだということに感心する。ガチガチの岩を切り出し、当然人力で少しずつ少しずつ運び出す。いったい何年の歳月を費やしたことだろう。それから壁に緻密な彫刻を施していく。崩してしまったら代えがきかないところを、じっくり、細心に掘っていったのだ。そしてそこに生活する仏教僧。確かに涼しいし川もすぐ下を流れているが、食料は遠方から調達してくるしかない。想像を絶する作業を支えた、仏教への信仰心が今もなお肌で感じられた。
石窟にはたいてい中央奥に1体、大きな仏陀が鎮座している。顔立ちは厳しかったり優しかったりさまざまだが、暗闇の中にひっそりとたたずむ威厳や風格は心を打たれる。それを囲むように菩薩や諸天部が居並んでおり、その大きさにまた異次元に迷い込んでしまったような錯覚を覚えた。異次元というよりはむしろ、仏国土というべきか。
28の石窟をひとつひとつ見ていくと、休憩もそこそこに普通に回ったつもりなのに3時間かかった。2月とはいえ30度を超える日射はかなり堪える。陳先生と楊先生は水などをちゃんと用意してきたが、私は空身だったので飲まず食わずで我慢するしかなかった。3月以降になってもっと暑くなったら、きっともつまい。見終わったのが正午過ぎ、頂上バス停近くのレストランでターリー(定食)を食べ、水を飲む。ここにも日本人の団体客がいた。年配の方もいたが炎天下の中、たいへんだっただろう。
観光客のほとんどはインド人である。だがホリデーリゾートのウェイターが言っていた通り、外国人とおぼしき中では日本人が圧倒的に多い。バックパッカー風の若者、団体旅行の年配客、カップル。バス停で寄ってくる売り子がもっているパンフレットには、英語のほかに日本語のもあるし、売り子も日本人だとわかると「コンニチワ!」「ミルダケ!」「ヤスイヨ!」と日本語を連発してくるのもこれで納得できる。だが日本人同士であっても、旅の情緒を大事にしたいせいかあまり話しかけないようだ。私が挨拶してみると、夢から醒めたような顔でこちらを見てくる人が多かった。
さて昼食をとるとまたバスに乗ってふもとへ。土産物屋には目もくれず一行はもうひとつの石窟寺院であるエローラに向かった。ちなみに土産物屋にはざっと見た限り、宝石の結晶だとか、ガリガリに痩せた仏像だとか、民芸品風のバッグや帽子などがあった。ふもとでも食事を取ることはできる。アジャンタからエローラまでは1時間ちょっと。暑さと歩き疲れで再び眠り込んでしまう3人。陳先生は助手席で運転手に何度ももたれかかっていた。外の景色は大きな山と、広いステップ。民家が一軒も見えないなかをタクシーは飛ばす。
エローラに着いたのは午後3時。こちらはアジャンタの後に作られたとされており、大乗仏教も後期となって密教色の強い彫刻が多い。なまめかしい女性の彫刻がずらりと並んでいたりする。そしてもうひとつの特徴は、ジャイナ教、ヒンドゥー教寺院が並存していることだ。仏教が廃れた後も、同じ場所にヒンドゥー教、ジャイナ教徒が寺院を作り続け、10世紀までに34の石窟が作られた。仏教のものはそのうち12を数えるに留まる。
入場料はもっとも大きいカイラーサナータ寺院(ヒンドゥー教)に入るときにのみ必要で、仏教寺院を見るのは無料。無料の分、手入れもあまり行き届いておらず、あちこちでかけた仏像が散見された。とはいえ要所要所に政府に雇われた管理者がいて、いたずらしようとする子供や若者に注意したり、掃除をしたりしている。身なりから給料は決して高くないだろうと推察された。「この道の先には何もない」という人がいたが、あれは係として雇われているのか気になった。
エローラの石窟寺院は数こそ少ないものの、ひとつひとつがやたら大きい。ヴィハーラ(僧侶の住居)窟としてはインド最大のもの、3階層のマンションのようになっていて一室一室に仏像が安置されているものなど、規模の大きさはアジャンタをしのいでいる。急峻な山の上にある他の石窟寺院と比べて、エローラはなだらかな山の上にあり、石工たちも集まりやすかったのだろう。足の疲れも気にならず、ずっと見て歩いて3時間。アジャンタと同じ時間を費やして見られたのは、仏教寺院だけだった。
見ごたえは確かにあった。圧巻は3階層のマンションの最上階にある仏像群。1体3メートルほどの仏像が、数え切れないほどずらりと並んでいる。その前を合掌し続けて歩く。正面の本尊は鍵がかかっていたが、係の人が開けてくれ、中をロウソクで照らしながら案内してくれた。中央に釈尊、両脇に弥勒・観音菩薩、そのまたとなりにたくさんの菩薩が並んでおり、暗闇からぬっと浮き出てくるさまは荘厳そのもの。さらに裏側にはプラダクシナー(右回りの礼拝)用の通路まで掘られてあった。そこを腰を低くして通る。本尊の前には悪魔にまたがる小さな仏像も彫られていた。なかなか芸が細かい。
見終わるともう6時で、カイラーサナータ寺院も閉まっている。ジャイナ教寺院、ヒンドゥー寺院まで見るには、時間だけでなく体力もそれほど残っていない。シヴァが祀られているヒンドゥー寺院だけちょっと見て、休憩を終えると帰途に向かった。エローラからアウランガバードまでは小一時間。タクシーの運転手もようやく仕事が終わるとあってか、「アウランガバードの運転は道が混んでて難しいんだぜ」と軽口になる。リキシャー・自転車・歩行者が所狭しと行き交うインドの都市では、どこでも車の運転はたいへんだろう。
陳先生は「チかれた」と笑顔で話しかけてくる。私は「太累了(とても疲れた)」と返す。楊先生も調子に乗って「日本人のみなさん、私はヤンです」などと言い始める。しまいには中国語・英語・日本語を入り混ぜて3人でワイワイ。一人旅にはない楽しみが、旅行中の会話である。
帰りのバスは午後8時発のものを予約できた。料金は160ルピー(400円)と高めだが、帰りも出発は11時30分だと思っていたので時間が早まったことにほっとする。軽い夕食をとって、やってきたバスに乗り込むとなんと寝台バスであった。どおりで運賃が高いわけだと喜んだのもつかの間、なんと1寝台に2人寝なければならないことが分かる。これはつらい。楊先生とうなぎの寝床のようにして寝る。狭い。しかも道路のデコボコでまた揺れる。痛い。そしてどんどん冷え込んでいく。おまけに咳まで出始めた。寒い…。山形・東京・つくばでどういうところに寝てきたかが走馬灯のように駆け巡る。
生きた心地がしないまま、何となくウトウト。楊先生の背中が温かかったのが助かった。プネー着は午前2時ころ。もうこれ以上乗るのは我慢できないと思い始めたころにやっと到着した。このバスはそのままムンバイまで行くので、降り遅れるとたいへんなことになる。一番後ろの席でもあったので降りるのにモタモタしていたが、陳先生たちが車掌に言ってくれたお陰で無事降りられた。旅の連れ合いはこういうときにありがたい。
そこからリキシャーに乗って、家に着いたのは午前3時前だった。プネーの夜もまた非常に寒い。バスの中で冷え込んでいた上に、リキシャーの風に当たってしゃべる気力も失せていた。家は存外暖かく、九死に一生を得る思いであった。次の日、目が覚めたのは昼の12時である。
心身ともにリフレッシュできたというのは偽らざる心境だ。だが今回の旅行は、インドの暑さと寒さがいかに厳しいか身にしみて経験するものとなったのも確かである。これでは体調を崩しても仕方がない。水と多めの上着。今後これほど無茶な旅行をするとは思えないが、よく覚えておきたい。