この日が実質的な旅行の第1日目.早朝の飛行機でラクノウまで1時間.ホテルから空港までのタクシーは,フロントでは150ルピーと言われたが実際は200ルピーだった.ホテルからのタクシーは値段が上がるのが普通らしい.
ラクノウは仏蹟がたくさんあるウッタル・プラデーシュ州の中枢都市だ.デリーからはそれほど遠くない.この空港で旅行代理店が手配した運転手付きの車に乗り込む.手配したといっても白ナンバーだった.運転手はマノージ・グプタ(30).対向車の間合いを見極めた追い越し運転と人並もクラクションを鳴らしながら猛スピードで駆け抜ける豪快さの一方で,曲がり角に来るたびに必ず通りがかりの人に道を訊く慎重さも持ち合わせており,移動時間はかなり短縮された.5日間,合計1300キロを走行したが,人はもちろんのこと,犬や山羊も轢かなかったのは奇跡に思われる.英語はあまりわからず,ヒンディー語で話をする場面が多かった.
一行は一路アヨーディヤへ.ここは仏蹟ではなく,ヒンドゥー教の聖都とされる.アヨーディヤに行くという話をしたら,インド人の友人に「私も行ったことがないのに!」とえらく羨ましがられた.陰謀で都を追い出されたラーマ王子が,妻のシーターと弟のラクシュマンを引き連れて14年に渡る大冒険を繰り広げ,凱旋したときに,街の人々が灯りをともして祝った故事(『ラーマーヤナ』)が,ディワーリー(梵・ディーパーヴァリー 灯りの列)の元になっている.折りしもディワーリーの時期,この街は数日前までかなり危険な状態だったという.
中心にあるラーマ寺院の裏に,イスラム教のモスクが建設されるとかどうとかで,イスラム教徒とヒンドゥー教徒が争っている.ヒンドゥー教徒は聖地奪還と言わんばかりに全国からアヨーディヤを目指して行進を始め,紛争を回避しようとする警察に大勢の人が拘束・逮捕された.政治問題も絡んでいるらしい.危険な状態が続いているならば訪問中止も考えられたが,マノージは問題ないと言っており,実際にも抗争の跡すらない平和な街だった.問題のラーマ寺院に参拝.行者がたくさんいて出迎えてくれた.お参りしているときに「Money!」というのは興醒めだったが,それにもだんだん慣れてきている.
近くにはハヌマーン(猿の神様)の寺院もあったが,本物の猿もたくさんいた.屋根をどたどた走り回ったり,道端で何か拾って食べたりしている.犬猿の仲というけれども,落ちている食べ物をめぐって猿が犬を威嚇するのを見て,本当なのだと思った.写真は争いが終わって去っていく犬とまた食べ物を見つけて食べている子供の猿.
昼食は屋台でプリー.お父さんと娘だろうか,2人でやっている.お父さんが調理,娘が盛り付けと配膳.隣の屋台でチャイを飲む.食事をしながら店主や休んでいるおじさんたちから情報収集.カタコトのヒンディー語でも,ジェスチャーを交えながら話をすると結構通じるものである.アヨーディヤをめぐるヒンドゥーとイスラムの争いのことを少し聞くことができた.
ここから一行は北上,シュラヴァスティへ.ラクノウからアヨーディヤは80キロぐらい出せるいい道が続いていたが,ここからは国道であるにも関わらず,悪い道が多かった.舗装がはがれて穴だらけの街道,街や村に入ると極端に狭くなる道,時速は30キロが精一杯.ここから5日間,ほとんどこの調子だった.
そんな道なので車がパンク.スペアタイヤに交換して,近くのパンク修理屋に駆け込む.空気つめとパンク修理だけのお店で,1回10ルピー程度.それでも空気をつめるコンプレッサーがあるだけ豪華だ.それなのに従業員が3人くらいいて,2人が小屋の中で暇そうに昼寝していた.隣の小屋は床屋になっており,パンク修理が終わる頃に客が一人やってきたが,パンク修理屋の親父が対応していた.パンク修理兼床屋,日本ではまずあり得ない職業の組み合わせだろう.
道中何度か休憩をしたが,田舎ではトイレがない.「Toilet kahaan hai?(トイレはどこですか)」と訊くと「Toilet
nahiin hai!(トイレはありません)」という答え.どうぞその辺でご自由にということなのだ.道路の上で堂々とウンコしている子供もたくさんいた.女性だったらけっこう厳しい旅行かもしれない.
都市部ばかりを回る旅行だが,こうした片田舎に突然止まってそこに住む人々の生活ぶりを知るのもいい機会である.都市部ではすぐに子供の物乞いがやってくるが,ここまで田舎になると子供も緊張して近づいてこない.左は警戒しながら逃げていく子供たちをやっと呼び止めて撮った写真.親も子供がさらわれるのではないかと言わんばかりに不安そうに見ていた.パンクが直るまでの30分ほど,ノスタルジックな光景に浸ることができた.
ちょうどこの辺りからお釈迦様が活動した領域に入る.土地は広く豊かで当時ならば相当富裕な国であったことがうかがわれた.僧侶のような物を生産しない人々が行乞で生きていくためには,それなりに豊かである必要があるだろう.現代は土地が豊かでも経済的に豊かでないことが多いが,2500年前からあまり変わっているとは思えないのどかな田園風景に,とても心が安らいだ.
シュラヴァスティに着いたのは17:30.日がどんどん沈んでいき,あっという間に暗くなってしまった.30分でここを見るのは時間的にも気分的にも無理な話.急いでぐるぐる回っていると,ガードマンが木に貼り付ける金箔を渡してきて,それを貼り付けてから50ルピーを請求された.急いでいなければ断ることもできたのだろうが,失敗.旅に余裕は大事である.
6時になると日は完全に暮れてしまい,外国人入場料の2ドルがもったいないくらいで,ガードマンに掛け合って同じチケットで明日も入れないか交渉してみたが無理だった.その上売り子が群がってくる.素焼きのミニ仏像とか,パンフレットとか,挙句には日本円の500円玉を売ろうとするのまでいた.しかも日本語を心得ていて,「先生!先生!」と呼びかけてくる.さすがにこれにはウンザリ.
シュラヴァスティに宿はなく,近くのバルランプルのツーリストバンガロー(国立宿泊所)に宿泊.客はほとんどおらず,公務員である従業員はとても暇そう.夕食の注文を3人で取りに来たり,テレビが映らないと言ったらまた3人で交換してみたりと,人が明らかに余っている様子だった.しかしそんな対応が誠実に見えて好感が持てた.