『日常生活のなかの禅』 南直哉著 講談社メチエ 2001年4月
曹洞宗きっての精鋭、南直哉師。ふつうのサラリーマンから20代に出家し、永平寺で長く修行してきた。現在は都内に僧堂をかまえ、現代にあるべき仏教と僧侶のあり方を求めて、修行を続けている。
私はこれまで2回、講演を聞いたが非常に刺激的であった。「今や結婚しない僧侶はどこかおかしいと思われている」「これから50年後、寺院はどんどんつぶれていく」「儀式化した法要は、現代人の求めているものと違う」などなど。永平寺にいた知り合いなどによれば「極論の南さん」とさえ言われているらしいが、多くの点で納得できる話が多い。
師の著書は『語る禅僧』(朝日新聞社)とこの本だが、前者は連載コラムをまとめたもので、師が幼少から抱き続けてきた違和感から、現代の社会情勢に至るまで痛烈な読み物であった。ひとの日記を覗き見るような面白さがあったが、もう一方のこの本はというとタイトルからして「どうせありきたりの説教ものだろう」と思われた。
しかし読み出すとこれまた非常に哲学的で面白い。いや、面白いというよりは焦ってくる。自分の体たらくな生き方に。
坐禅は土台である。家を建てるには土台が決定的に重要だが、土台が家の「実体」でも「本質」でもない。また逆に、上に家屋が建たなければ、土台は土台でもなく、ただの地面だろう。われわれの生という家は、土台ぐるみの建物全部である。すなわち、坐禅の意味は、人が坐禅をしながら、あるいはした結果、どう生きているのか、生きたのかで決まる他ない。
禅宗における参学とは、教室の仏教学とはまるで異なる。そこには身体が重要な役割を果たし、修行の中で釈尊や祖師の教えを身体に直接刷り込んでいく。文献をいくら眺めていても理解できない境地。そういえば昔読んだVasubandhuの『唯識三十頌』においても、「ここから先は修行した人でなければわからない」と言うようなことが書いてあって絶望した覚えがある。
私は今、明らかにこの教えの外にいる。外にいたままでは死ぬまで仏教の何たるかを知らずに過ごすことだろう。思い切って只中に飛び込んでいく勇気が湧かない臆病さを恥じた。