インドから中国を経て日本に伝来した仏教が、独特の姿に変容した背景を、仏教が伝来する前からの民族的精神風土から読み解く。
境界を守護する「塞の神」に取って代わった地蔵、地獄が極楽とつながるあの世観、戒律より「聖」の役割を期待された僧侶、わざと醜い姿に作られた不動明王、女性神が転化した観音、両者がお互いに歩み寄った神仏混淆、自然宗教を基礎とする葬式仏教。いずれも、仏教が日本民族の習俗にうまく乗っかる形で溶け込み、現在の日本文化を形成していることが民俗学・文献学から示されている。
斬新な分析ばかりで、これが仏教学的・民俗学的に裏付けられていることなのかという疑問はあるが(例えば五来重の説)、典拠もきちんと示されており納得できる点も多い。「こういう説もある」というかたちで身につく知識多数。
日本の僧侶に対して肉食妻帯が鷹揚なのは、司祭者が祭りのときだけ苦行や精進潔斎を行って、それ以外は普段の暮らしでもよいという神意識に共通するのではないかという。そういう使い分けは確かになされているだろう。大乗とか専修念仏という仏教的な考えは後付けかもしれない。
しかしそれが進みすぎれば僧侶が僧侶たる所以まで失いかねない。
「肉食妻帯や有髪など、俗人と変わらない生活形態を公然と採用しながら、俗的生活と違う、僧侶たらしい生き方を模索する努力を失念しているということだ。」
葬式仏教の主眼を、死者のタマシイを「ご先祖」祖先の霊の集合体にまで昇華させるとした点は秀逸。仏教の教義はほんの飾りでしかないといわれると悲しいが、実際そんなところなのだろう。
著者は仏教の本来の立場を生きている人間の課題に応えること、在家主義を実践することとし、葬式仏教の崩壊を歓迎しつつも、死者を差別せず平等なものとして成仏を願い、安心を与えてきた仏教の恩恵にも銘記を促している。祟り、天罰、報いといった前近代的な思考を離れるのに、仏教の役割は重要だ。
日本人が仏教から学んできた慈悲と、それにすがりすぎて生まれた精神的横着さ。もっと世間と緊張感をもって接し、世間に流されない仏教だけの価値を固めていきたいと思った。