昨日はつくばから長女を連れて山形へ。夕方からはご寺院さんの集まりで講演。「般若心経の読解」ということでお話をさせて頂いた。
最近は鉛筆で書くシリーズとかニンテンドーDSとかで般若心経がちょっとしたブームになっているようだ。たくさんの解説本が出版され、仏教の多くの宗派で日常的に読まれている般若心経。でもその意味はあまり考えられていないように感じる。
そもそも題名の「般若波羅蜜」も、最後の真言「ギャーテーギャーテー〜」も敢えて訳さず音写しただけだし、解説本には「意味など考えず読むのがよい」というのもある。頭を空っぽにして読めば、お経を体現したことになるんだとか。
でもそれが原作者のインド人の意図だったのか? また意味もないものをどうして三蔵法師が中国に持ち帰ったりするだろうか? お経である以上、そこには何らかのメッセージが込められているのであり、メッセージを読み取る努力を放棄するのは怠慢だろう。
トピックはおおむね以下の通り。
・お題が後に来るインドの書き方
・なぜ釈尊ではなく観自在菩薩が説くのか
・インドのお寺で般若心経を読んだ後、信者から「サードゥ、サードゥ」と言われた話
・なぜやたら舎利子を呼びかけるのか
・原文にない「度一切苦厄」を挿入し、原文にある「無明知、無明知尽」を削除した玄奘
・「不増不減」は「不減不増」がもとの語順
・「色即是空」はいいが「空即是色」は論理的におかしいのではないか(逆は真ならず)
・「真実不虚故」を「真実である。間違いがないから」と訳す理由(多くの解説書は「真実であり、間違いがない。ゆえに」と誤訳している)
一番の問題である空とは何か、般若波羅蜜とは何かは時間の都合で省略(実際、私の手に負えない)。
はじめにサンスクリット語の原典を音読。後日録音したので興味のある方はどうぞ。
サンスクリット原典 般若心経
時間も短いし楽勝かと思っていたが、聴衆はいつも私が指導いただいている先輩・大先輩の御住職さまたちでかなり緊張した。しかも終わってからの懇親会はいきなりカミ座に座らされ、皆がウーロン茶を注ぎにやっていらっしゃる。食事がほとんど喉を通らなかったのは言うまでもない。
幸いだったのは「楽しかった」という御講評を頂戴したこと。般若心経はここがおかしいとか、お釈迦様がこんな大事なときになんで瞑想しているのとか、ぶっちゃけすぎて法話としては失格だったのが新鮮だったのだろうか?
こんな不勉強の私に貴重な機会を与えてくださった諸先輩方に感謝。
この間、長女は母と寺族会に出席していた。幸いずっと本を読んだりお絵かきしたりして大人しかったので、皆にほめられたという。よかったよかった。
懇親会が終わって帰宅。長女とお風呂に入って疲れを癒し、山形にしては早い時間に就寝した。