故人を送る

「思い残すことはない」という言葉がありますが、実際この世を去るにあたって全く思い残すことがないというのはほとんどないでしょう。仕事に、趣味に、家族に、社会に、自分がやり残したと思うことはきりがないものです。
故人を送り出すにあたって、僧侶が葬儀で行うことはそういう「思い残し」を消し去ることでもなく、また力でねじ伏せることでもありません。むしろその思いをそっくりそのままあの世にもっていって頂いて、その思いの力で成仏できるようにするのです。
遺族にも故人に対する思いはさまざまあるだろうと思います。それは感謝や敬意の念だけではなく、もしかしたら憎しみや恨みだってあるかもしれません。ですがこの思いをどうか、故人の冥福を祈る気持ちに変えて一心に祈って頂きたいと思います。

これは昨日のお葬式での法話。
住職になって10年、これまで100人以上の方を送り出してきたが、最初の頃は気力をふりしぼって、力ずくであの世に追い出すような気持ちで葬儀に臨んでいたような気がする。
やがて御詠歌を習うようになり、追弔御和讃や無常御和讃を枕経や火葬でお唱えするようになると、遺族の感情に寄り添うという気持ちが生まれてきた。同情ではなくて、遺族の一人になったつもりで一緒に悲しむこと。
遺族の感情に寄り添うことは大乗仏教の流れにある日本の僧侶にとって非常に大切なことだと思うが、それだけでは単なる癒し系であって、宗教とはちょっと違う。昨年の研修会で葬儀の細かい作法をおさらいしてからは、故人をあの世に送り出すという意識を再び強く持つようになった。
しかしはじめたての頃のような力づくではなく、一挙手一投足に神経を集中するかたち。
葬儀前には「ただ我が身をも心もを、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、 仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、 こころをもつひやさずして生死をはなれ仏となる」という道元禅師の言葉をよく反芻している。
私には霊能力なんてこれっぽっちもないので、送り出した100人以上の仏弟子さんたちが今どうしているかは全く知る由がないが、方針がコロコロ変わって(やっていることは同じだが)どうなんだろうかと、ふと気になった。安心を得ていることを信じたい。

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