悟りを目指す原始仏教から、救済を目指す大乗仏教、そして死ねばたちまち成仏という日本仏教へと変容してきた仏教の歴史を分かりやすく説き、御霊信仰・先祖崇拝という日本人古来の死生観をふまえて、現代における仏教やお寺のあり方を問う本。
市井の仏教研究家による本だし、キャッチーなタイトルも軽いのであまり期待せず読み始めたが、なかなかどうして、学術的にもしっかり押さえられているし、著者の考察も筋道が通っている。それでいてこの手の話に陥りがちな仏教原理主義からも距離を置くバランス感覚もある。経験談も織り交ぜられていて楽しく、すっかり敬服した。
長寿国家の日本では、かつてのはかない死生観が薄れつつある。「人間八十歳を超えると、まず三分の二はボケる。ボケるから死ぬことなど考えない。ボケない方も延命治療で何がなんだか分からないうちに一生が終わるという時代」である。
そんな中、葬儀を中心にして発展してきた伝統教団の足場が急速にもろくなっている。しかし仏教信仰ではなく民族習慣の強みから、今後も寺院による葬儀は続いていくだろう。
そのカギとなる戒名のあり方を再考し、葬式仏教に徹して、「無量の光によって故人をつつみ、遺族の悲しみをやわらげ、会葬した人々に仏に頼ることのたしかさを信じさせ」なければならない。
戒名料などの名目でお寺がお金を要求することに対して、お寺がよく批判されるが、「社会的な立場と財力を表現できる」ものと考えた庶民にも責任はある。
しかしそれももう昔の話、今は「戒名が故人の生前の業績や社会的な地位、あるいは人柄といったものが反映されず、単にお布施の額に寄って決まる」ようになってしまい、「戒名の尊厳と価値」が薄れて「戒名が金銭と名誉欲の上に胡坐をかいている」という。
最後に筆者は、戒名をつけるならば戒の意味を真に問うこと、そうでなければ戒名のない(俗名のままの)仏式葬も認めることを提案する。
私が読んだ限り「困る」というより快哉を叫びたくなったが、多くのお寺で戒名料は大きな財源になっているため、僧侶の側からこうした問題提起がしにくいのは事実である。
しかし早いところそういう状態から脱却して、信仰を築く努力をしていかないと、お寺の運営どころの話ではなくなっていくのだと思う。
著者は福島にいらっしゃるようなので、一度直接お話を聞いてみたい。