寺院の合併

妻と長女は金曜夜に無事に到着し、昨日は米沢の上杉博物館で行われていたドールズハウス展と雪灯篭祭、外国語サークルに行ってきた。米沢の市街中心部の寂しさは長井以上かもしれない。バイパス通りは賑やかなのだが……。
そして今日は先週に引き続き大般若会。今年に入って5回目となり、だいぶ心配なくできるようになった。大きな声で「大!般若経巻第……降!伏一切大魔最勝成就……」と唱えていると気合が入ってよい。今年予定されているのはあと3回。
終わってからの食事で、どうすればもっと参拝客を増やせるかという話を振ってみる。私のお寺でもこの悩みは深刻だ。
原因については過疎化もあるが、人々の意識に寺院離れが進んでいるようだ。寺に足が向かないのは、葬儀と法事以外のこと、例えば生きる指針とか悩み事の相談などを期待していないのではないか。
「細木数子とか、江原啓之なんかもひとつの信仰ですからねぇ。そういうので事足りている人は、お寺に来にくいのではないでしょうか……」と言ったところで、「お寺に来ない人は、仏教を信仰していない」なんていう話になったらマズイと思ってやめた。それだと、江戸時代の踏み絵や寺請制度と変わらない話になってしまう。
そこから発展して寺院の合併の話。これから先、過疎化が進めば空き寺を守る檀家さんも次第に維持費を捻出できなくなり、お寺をお化け屋敷のようにしておくくらいなら、いっそのこと近隣の寺院と合併したほうがよいという話が現実味を帯びてくる。
総代などを代々務めてきた家では、先祖が代々守ってきたお寺をその代でなくしてしまっていいのかという葛藤があり、寺の役員が合併話を持ち出すことは滅多にない。
私がこういう話を聞いたのは2回目だが、どちらも住職がいないお寺の、若い役員から出た話だった。近くの寺院が掛け持ちで住職をして、手厚い檀務をしていたとしても、誰も住んでいないお寺を維持していくのはつらいだろう。維持するには先祖代々の誇りだけでなく、お金もしっかりかかる。
実際問題、お寺の合併は今後どんどん現実になっていくだろう。今のところ、合併すると各寺院が納める宗費が減るためか、宗門は合併に積極的でない。合併には宗教法人の解散はじめ複雑な手続きが立ちはだかり、ほとんど行われていないのが現状だ。
今日お話をした役員さんは、合併だけでなくお寺が葬祭業を運営するという大胆な意見だった。いわく葬儀社は儲け主義でいけない、お寺が葬祭業をすればもっと負担を少なくできるのではないかと。
寺院が葬祭を取り仕切れるようにならなければならないとは私も思っているが、相当な経営手腕がないと葬祭業に手は出せない。ところが、住職というものはあまり商売上手でないほうがよいもの。
曹洞宗では住職が経営に参加したソートービルや多々良学園が経営に失敗し問題になったが、当然の結末と思われる。住職の片手間に葬祭業を始めて、成功するほうが珍しいだろう。
将来、寺院のあり方や葬祭のあり方が変化していけば、もしかしたら寺院は生き残りをかけて葬祭業に打って出ることになろうのだろうか。30年後、50年後に向けて先手を打つべきか、それとも社会変化の後追いをしていくべきか、どちらがよいのか迷うところである。

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