葬式仏教によってなおざりになってしまった現代の諸問題に、気鋭の仏教学者や僧侶が立ち向かった論考集。
掲載されている論考は序文を含め16篇。生命・環境といった倫理的な問題を第1部に、仏教と社会との関わりの歴史を第2部に、実践的な立場からの問い直しを第3部にする構成で、興味のあるところから読み進めてよいようになっている。
全体に通底する問題意識は、編者代表の末木文美士氏が主張してきた大衆迎合主義からの脱却である。
仏教は平和主義であるとか、仏教は生命を大事にするとか、口先だけのきれい事をやめようではないか。自分の感覚として何が大事なのか、自分自身を見つめ、そして考え直すところから出発するのでなければならない。経典に書いてあるからとか、宗祖がこういったから、ということは、もちろん宗派内の「公」としては成り立つし、それは否定しない。しかし、それは宗派を離れたら何の説得力も持たないことを認識しなければならない。(pp.27f)
日本の社会は、とりわけ戦後、宗教に対して冷淡であり、敵対的でさえあった。(中略)そのような逆風が続く中で、仏教界の側も萎縮し、自らの教団の中だけに閉じこもり、外の世界との共通の議論の場を絶って自己防衛に徹する姿勢を続けてきた。(pp.296f)
しかし実際に現代の諸問題と仏教をリンクさせるのは容易なことではない。前川健一氏は、脳死と臓器移植について仏教の教義に照らし合わせた結果、全く正反対の結論になっていることを指摘し、「特定の倫理的決定の正当化であるよりも、健全な懐疑主義(p.77)」が必要であることを述べている。また、安易なリンクは、仏教が抱える性差別(熊本英人『仏教とジェンダーフリー・バッシング』)や戦争肯定(石井公成『不殺生と殺生礼讃』)の歴史を再び招くことにもなりかねない。
そこで上田紀行氏が、縁起や慈悲を説くだけでなく縁起や慈悲に生きることが必要だと述べ(p.47)、菅原伸郎氏が教師が「仏教を教えるのではなく、仏教で教える」(p.149)と述べているように、仏教をまず学び、自分のものさしできちんと取捨選択して、それを実践する中にこそこれからの仏教の存在価値があるようだ。
しかし具体的に何を実践するかというと、「寺という場所を生かしながら、地域のNPOなど市民と連携して、寺の社会的役割を打ち出していく(秋田光彦談・http://www.asahi.com/kansai/kokoro/taidan/OSK200702130025.html)」とはいうものの、なかなか難しいのが現状である。
上田紀行氏の著書『がんばれ仏教!お寺ルネサンスの時代』でも、藤井正雄氏の著書『仏教再生の道すじ』においても、芥川賞作家の玄侑宗久氏のような稀なケースを除いて、お寺に閉じこもってはいないにしても、あまりお寺から離れていない印象を受ける。
本書はその意味で、現代における仏教実践の端緒なのだろう。道を誤らないポイントを押さえつつ、道に飛び込んだとき、どんな未来が開けるかは、全国に25万人いるという僧侶と、仏教を愛する全ての人々ひとりひとりの肩にかかっている。