葬儀を仕切るのは誰か

近くのご寺院で寺族(住職の家族)のお葬式に参列。寺族だといっても、次第は一般と大きく変わらない。枕飯と水をお供えして枕経、旅装束をさせて入棺、釘を打ち込んで出棺、線香を焚いて火葬、収骨して帰り安位。そして葬儀を行う。
今回気になって仕方なかったのは葬儀屋さんの司会進行である。以前にも(「葬儀屋さんの司会」)で台詞がマニュアル調でしかもクサすぎると思ったり、「経験不足だとどうしても不自然になりがち」と聞いたりしていたが、今回頭をもたげたのは「なぜそこまで仕切るのか?」という疑問。
「皆様、合掌をお願い致します」
「これより○○の儀に移ります。本来この式は……」
「それでは喪主様よりご焼香下さい」
一般家庭で、僧侶のいないところで司会進行するのであればこれでもよい。しかし今回は、経験豊富な老僧や布教師がずらりと並んでいるのだ。その皆が、言われたとおりに合掌したりしているはもったいなさすぎる。僧侶って、単なるお経読みのBGM係なの?
古来より冠婚葬祭では、主催者代表(喪主・祭主)と執行役の長(葬司、祭司)がいる。祭主は必要な物資を用意するところまではするが、後は祭司が中身を取り仕切る。僧侶が在家の葬儀に関わるとき、その立場は祭司でなければならないはずだ。
それが今日、あまりに葬儀屋さん任せになってしまっており、祭司の座を降りてしまった感がある。葬儀屋さんに代わって仕切れといわれても、仕切れるのはせいぜい葬式の当日だけで、それ以外の臨終作法となると覚束ない。その行き着く先は、僧侶不要論にほかならない。
というわけで今回の疑問はつきつめると「(葬儀屋さんが)なぜそこまで仕切るのか?」ではなく「(僧侶が葬儀屋さんに)なぜそこまで仕切らせるのか?」ということになる。
ここで「アーナンダよ。お前たちは、修行完成者(=釈尊)の遺骨の供養にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ。」(『ブッダ最後の旅』)と説いた釈尊を引き合いに出して、僧侶の務めは祭司ではない、葬儀を通した自己の修業であり、衆生の教化である、というならば、BGM係にそんな大層なことができるのだろうか。そもそも、在家葬を基盤にして中世に全国に展開した寺院の跡を継ぐ者は今更そんなことを言えまい。
これからは、葬儀屋さんと良好な関係を築きながら、葬儀の次第を事細かに学んで、葬儀屋さんに代わって仕切れる僧侶になるべきだと思う。葬祭ディレクターの講習でも受けたらどうだろうか。
(この話は葬儀屋さんが不要だと言っているのではない。遺体搬送から、葬具の手配、湯灌や死化粧など多岐にわたる葬儀屋さんの仕事は、今は欠かせないものとなっている。)

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