著・アルボムッレ・スマナサーラ/アルタープレス(2020年)
曹洞宗宗務庁が出版社に抗議文を送ったことで話題となった本(『月刊住職』2020年10月号「曹洞宗が日本テーラワーダ仏教協会僧侶の本に抗議! 虚妄の造説との批判に著者は感謝を込めてと」)。本書ではテーラワーダ仏教の立場から全く伝統の異なる禅語を解説するが、それだけならばまだしも、曹洞宗に対する評言が肯(うべな)うことができない内容を含んでいたため、黙認できず抗議に至ったという。
例えば「只管打坐」を「妄想してはいけないということ」と解釈したことに対し(スマナサーラ長老はこの解釈を曹洞宗のシンポジウムで披露したけれども分かってもらえなかったという。まあそうなるだろう)、「仏祖から受け継がれてきたものを而今において実証する」という観点が欠落しているとし、「ただ坐るならば、その心もストップさせなくてはいけない」という見解については、身心不ニからかけ離れている上に、大悲・実相を体現するという観点がないという。要するに分かりやすくするためにごく一部の要素だけ取り上げてしまったり、誤解を招く解釈になってしまったりしているというわけである。
スマナサーラ長老はこの抗議文に対し、「一般人に向けて仏教を語る場合、どうしても教壇から下りて茶話会のような口調にならなくてはいけない」と返信したという。分かりやすく解こうとした意図は理解できるが、仏祖から大切に伝えられてきた禅語の一部に対して「どうでもいいゴミ」「言葉遊び」などと言ったら、お叱りを受けるのは仕方ないだろうと思われる。「禅にはテキストがないからその意味が曲解されてきた」という箇所については、確かにテーラワーダ仏教にはパーリ語で書かれたテキスト(阿含経)があり、初期仏教の教説をより多く保持しているといっても、では価値を認めていない禅語をなぜ解説しているのかということになってしまう(頼まれたから仕方なく?)。
またスマナサーラ長老は「感謝を込めて読ませてもらいました」としつつも、「『私が言うことのみ正しい、他人の言うことは断言的に間違っている』というスタンスはお釈迦様によって否定されている」と返信している。反論とも受け取れるが、抗議文はテーラワーダ仏教に対して曹洞宗の正しさを主張したものではなく(逆にスマナサーラ長老のほうが、曹洞宗に対するテーラワーダ仏教の正しさを主張しているようにも読める)、曹洞禅に対する誤解を解こうとしているものだと思う。しかしその誤解は決してスマナサーラ長老だけのものではなく、巷にも、宗門僧侶にも広がっている可能性はある。
坐禅指導をするときに「何も考えないで、何か思いついても追いかけないで」と説くだけでは、スマナサーラ長老の「妄想してはいけない」「心をストップさせる」とあまり変わらない。ひとりひとり坐る姿が釈迦牟尼仏から代々伝えられてきたものであり、「一寸坐れば一寸の仏」であるということや、坐っている自分と、周囲を取り巻く生きとし生けるものと、そして諸仏は深いところでつながっており、「三界唯一心」であるということを自身が感得し、それを参禅者に説く努力を怠ってはいないだろうか。法戦式などで繰り広げられる禅問答も、本則のどういう点について参究し議論するのか提唱されているだろうか。意味も分からずただ丸暗記して大声を張り上げているだけになっていないか。法門は無量でも学び続け、衆生は無辺でも伝え続けるのが、私達の誓願であるはずだ。
もっとも本書で禅語を批判しているのはごく一部で、ほとんどは高く評価しており、学ぶべき点は多々ある(スマナサーラ長老は『般若心経は間違い?』という著書で般若心経を痛烈に批判しているが、少なくとも般若心経より禅語のほうが、テーラワーダ仏教の教義に近いのかもしれない)。「廓然無聖」では、「一番価値があると思い、執着している自分の内実は空である」と説き、「不昧因果」では、「怒らない」と決めてその意図通りに努力して生きる人と、そもそも怒りの感情が起こらず自然な流れで生きる人に違いはないと対比する。「一日作ざれば、一日食らわず」を、飯を食べるために働くということではなく、菩提心を忘れず瞬間たりとも無駄にせず修行せよと理解するのも、我々が教えられてきたことから大きく外れていないのではないだろうか。「禅語の意味を理解したいと思うならば、人間の思考パターンと物事を理解する既定の方法から抜け出さなくてはいけません(あとがきより)。」
インドでは仏教が始まって以来、1500年にわたってバラモン教と仏教の間で激しい議論が繰り広げられてきた。無我を説くのに輪廻も認めるという矛盾をどう解決するかなど、長い議論の歴史の中で仏教の教説は鍛えられ進化してきた。今、急速に寺離れが進む中、変容する現代人の悩み苦しみに答えられるよう、これからも仏教はアップデートしていかなければならない。そのときに、そっくり受け入れることはできないとしても、こうした「外部」からの目も大切にしたいものである。
(『参禅の道』第74号に寄稿)