『〈業〉とは何か』

平岡聡『〈業〉とは何か』読了。現在の困窮を前世の結果であると説いて差別を助長する「悪しき業論」に対する反省から、業ということ自体説くことを避ける風潮が現代の仏教界にはありますが、ブッダが自らを業論者といっている以上、避けては通れません。ブッダ以前のインド思想から、伝統仏教、大乗仏教へと業の思想史を概観し、さらに現代社会においてどのような意義があるかを考察します。

『沙門果経』において「人間の幸不幸はすべて過去の業によって決定される」という宿作因論、「人間の幸不幸は神によって決定される」という尊祐造論、「人間の幸不幸はすべて偶然の産物である」という無因無縁論はいずれも外道の見解として退けられ、「努力することでこの世の人生は変えられる、人間は変われる」という精進論がブッダの立場であるといいます。また、因果応報には仏典のあちこちで多くの例外があることから、業を普遍的法則や客観的事実とみなすことはできず、主観的事実(私にとってのみ意味のある事実)と理解すべきであると考察しています。『修証義』一章「因果の道理歴然として私なし」もそのように捉えたいところです。

よい行いと悪い行いは相殺せずどちらも混合して結果を生む「黒白業」、行為が終わっても潜在的な余力として心身に残り機が熟すると結果を生じる「無表業」(わかっちゃいるけどやめられない)、全ての有情が作り、その結果も全ての有情が受ける「共業」(連帯責任)、ブッダが前世で殺人を犯したことがあるという説話や、菩薩が衆生の苦しみを引き受ける「代受苦」などが興味深い話ばかりで、自分自身の毎日の生活でも思い出しています。

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