一、死者の書
○○○○善男子(善女人)、今こそ汝が道を求める時到来せり。汝の呼吸途絶えんとするや否や、汝には根源の光現れん。この時に、汝の本性を悟るべし。すなわち次のように発心すべし。
「我今死を迎えし。今こそ死に臨んで、慈悲心と菩提心を起こして、生きとし生けるもののために菩提を成就するように努めん」と。
○○○○善男子(善女人)、聴くべし。汝の今の意識は空にして純粋無垢、汝本来の姿なり。この明知には、もはや生も死もなし。汝の純粋な意識こそ仏にほかならざることを悟って、汝自身の明知に汝自身を見よ。
○○○○善男子(善女人)、今や死が来たれり。この世界から外へ行くのは汝独りにあらず。死は誰にでも訪れる。この世の生に執着や貪りを起こすべからず。執着してもこの世に留まることはできず、輪廻の世界を彷徨い続けることにならん。執着するべからず。貪り求めるべからず。仏法僧の三宝を思い続けよ。
汝の体と心が離ればなれになるとき、存在本来の光現れん。これを恐れるべからず。おののくべからず。怯えるべからず。怒るべからず。これこそ汝自身の存在本来の姿そのものの現れであると悟るべし。
もはや何であっても汝に危害を加えることを得ず。汝にはもはや死ぬことなきがゆえに。それが汝自身の投影なりと悟りさえすればよし。
ここに本師釈迦牟尼仏の最後の教え、『仏遺教経』を示さん。
一、仏遺教経
お釈迦様は最初の弟子から最後の弟子に至るまで、数多くの説法を行い弟子にしてきた。弟子にできるものは皆弟子にして、沙羅双樹の間に横になり、臨終を迎えていた。ときは夜中で周囲は静まり返っていた。お釈迦様は集まった弟子たちのために最後の説法を行った。
一つ、弟子たちよ、まさに知るべし。欲張りな者は利益を多く求めるがゆえに、悩みもまた多し。欲少なき者は無欲なればこの悩みなし。ただちに少欲を学ぶべし。少欲が多くの功徳を生むのはいうまでもなし。欲少なき者は他人に媚びへつらって気を引こうとすることもなく、感情に流されることもなし。欲少なき者は心が平穏で恐れるものなし。何事にもゆとりあり、足りなきこと常になし。少欲の者には安楽あり。これを「少欲」と名付く。
二つ、弟子たちよ、悩みをなくそうとするならば、まさに知足を学ぶべし。知足とは豊かで安穏なものなり。足ることを知る者は、地面で寝るような暮らしを送っていても安楽なり。足ることを知らぬ者は、豪邸で暮らしていても満足せず。足ることを知らぬ者は、裕福であっても心貧し。足ることを知る者は、貧しくても心豊かなり。足ることを知らぬ者は、常に欲望に流されて、足ることを知る人から哀れまれる。これを「知足」と名づく。
三つ、弟子たちよ、穏やかで恐れるもののなき安楽を求めるならば、喧噪の地を離れて閑静な地で独り暮らすべし。閑静なところに住む者は、帝釈天や神々が篤く敬う。よって周囲の人とのしがらみを捨て、閑静な地で独り暮らし、悩み苦しみの原因を断つべし。人づきあいが好きな者は、その分さまざまな事柄に悩まされる。大樹に多くの鳥が群がれば、折れたり枯れたりする恐れがあるがごとし。世間に束縛されれば悩みから逃れることを得ず。老いた象が泥沼にはまっておぼれ、自分で脱出できなくなるがごとし。これを「遠離」と名づく。
四つ、弟子たちよ、努力を怠らざれば、何事も成就できぬことなし。よってお前たちは、努力を惜しむべからず。少量の水であっても常に流れ続ければ、石に穴を穿つ。修行者の心が度々なまけるのは、火を起こさんとするに熱くなる前に止めてしまい、火を起こせざるがごとし。これを「精進」と名づく。
五つ、弟子たちよ、師匠や仲間を探すよりも、自身の信念を忘れざるに越したことはなし。信念を忘れなければ、諸々の煩悩盗賊のように心に侵入することを得ず。よってお前たちよ、常に信念を心に持ち続けるべし。信念をなくせば、さまざまな功徳を失うべし。信念強ければ、欲望が盗賊のように心の中に侵入したとしても、それによって惑わされることなし。鎧を着て戦場に入れば、恐れるものがなきがごとし。これを「不忘念」と名づく。
六つ、弟子たちよ、心よく制御する者は、坐禅をして心を静める。心静まれば、世間の無常で移り変わる有様を知る。よってお前たちよ、いつも努力して坐禅を学ぶべし。いつも坐禅を行なっていれば、心が乱れることなし。水を大事に使う家が、堤防を作るようがごとし。修行する者も同じく、智慧という水のために正しく坐禅をして、智慧という水を漏らさぬようにする。これを「禅定」と名付く。
七つ、弟子たちよ、智慧あれば欲も執着もなし。常に自分自身を省みて過失なきようにすべし。そうすれば、我が教えの中で悟りを開くことを得ん。真実の智慧とは、老・病・死の海を渡る丈夫な舟なり。あるいは無明という暗闇を照らす大いなる灯明なり。すべての病の苦しみを治す良薬なり。煩悩の樹を切り倒す鋭利な斧なり。よってお前たちよ、智慧の話を聞き、智慧への思いを巡らし、智慧を実践することで、自ら功徳を積むべし。智慧の輝きあれば、神通力なけれども、真理を明らかに見る人にならん。これを「智慧」と名付く。
八、弟子たちよ、誤った分別をすれば、心乱れる。心乱れれば修行していても悟りを開くことを得ず。よって弟子たちよ、心を乱す誤った分別は即刻やめるべし。心の平安を得んと思うならば、分別の過ちをなくすべし。これを「不戯論」と名づく。
弟子たちよ、数々の功徳の中でも、いつも一心に怠け心を、敵のようにして完全に捨て去るよう努めるべし。我教えんとせしことは、全て説き尽くせり。お前たちはただこれを実践するのみなり。いずこにいても、授けられた教えを心に留め、忘れなきようにすべし。常に自ら努力して実践し続けるべし。何もなさぬまま、虚しく過ごして死ねば後悔することにならん。我は、良医のように病を知って薬を処方せり。薬を飲むか飲まざるかは医者の責任にあらず。あるいは、案内人のように、道を示せり。これを聞いて行かざるは、案内人の過失にあらず。
弟子たちよ、苦しみと、苦しみの原因と、原因を断つことと、そのための修行という四つの真理について疑問があれば、今すぐ質問すべし。お釈迦様はこのように三度問いかけたもうに、誰も質問する者なし。弟子たちにはもう疑問なきがゆえに。その時、アヌルッダ、弟子たちの心を察してお釈迦様に申す。
お釈迦様、たとえ月が熱くなり、太陽が冷たくなったとしても、お釈迦様がお説きになった四つの真理は決して変わらず。お釈迦様がお説きになった人生の苦しみは本当に苦しみにして、安楽に変わることなし。苦しみの原因は煩悩にして、ほかに別の原因なし。苦しみは、その原因である煩悩を断つことによりなくならん。苦しみの原因なる煩悩を断つ修行こそ真の修行なり。ほかの修行なし。
お釈迦様、ここにいる弟子たちは、以上四つの真理について理解しており疑問なし。まだ修行を完成せざる者は、お釈迦様が亡くなると大いに悲しまん。修行を始めたばかりでも、お釈迦様の説法を聞けばたちまち救われるがゆえに。それは真夜中に、稲妻で照らされて道が分かるがごとし。一方、修行を完成し、苦しみの海を渡りし者も、「お釈迦様が亡くなるのは、何と早からん」と思うべし。
アヌルッダこのように語り、弟子たちは皆、四つの真理を理解せりしも、お釈迦様は、大勢の修行者の修行が堅固であるように、慈悲の心で再び説きたまえり。
弟子たちよ、悲しむべからず。我たとえ何万年と生きようとも、生まれたものは必ず滅ぶ。生まれたのに滅ばずということなし。自分も他人も幸せになる方法は、皆が理解せりし。我これ以上生きても説くことなし。救うべき者は、神も人も全て救うことを得たり。まだ救わざる者にも、いずれ救われるように教えを遺せり。今後、弟子たちが、教えを伝えて実践していけば、我は教えとして生き続け、死ぬことなし。よって知るべきである。世界は、すべて無常にして、出会いがあれば必ず別れあり。悲しむべからず。世界の真実斯くの如し。お前たちも努力して早く悟りを開き、智慧の明かりによって無知の闇を照らすべし。
世界は実に危うくもろく、永遠なものなど存在せず。我今死ぬということは、悪い病から解放されるがごとし。これこそ、捨て去るべき最悪のいわゆる「身体」にして、生・老・病・死の海に沈みたり。どうして智慧ある者が、敵のように捨てるべき身体をなくして、喜ばざることあらんや。
弟子たちよ、いつも一心に仏道を求めるべし。世間のあらゆるものは、いずれ壊れてなくならん。弟子たちよ、時はまさに過ぎ去らんとす。我の最期来たれり。これ我がの最後の説法なり。
一、追弔御和讃(一番)
一、回向
本師釈迦牟尼仏、仏遺教経に示して曰わく、世は皆無常なり、憂い悩みを懐くことなかれ、世のすがた是くの如しと。
仏法僧の三宝、願わくは慈悲を垂れ闇を照らし給え。
是くの如く読経する功徳は 新亡の善男子(善女人)○○○○霊位に回向す。
ただ願わくは、み仏の導きにより、死の苦しみと迷いと除き、安楽の涅槃に到らんことを。