童子百物かたり

糠山(本名吉田作弥綱富(上杉家馬廻組))

童子(わらし)百物かたり 其の二十四 草岡洞昌[松]寺の事

常安寺の雷什和尚が話されたのは、草の岡の洞昌[松]寺は少し山の上の東向きにあって、南向きの楼[鳴鶴楼]があり、下永居[長井]は言うまでもなく、郡中を見渡すことができ、とりわけて風雅人などの好む楼であった。檀家も相当にあって、納所暮らしもできる、多くの僧の希望する寺ということであった。

ところが雷什の若い頃、この寺に入寺して来る僧は半年も住まないで、病気を理由に申し出て寺を出たり、次の者たちも一年も経たずに出ていったり、あるいは二ヵ月三ヵ月で出て行くものもあった。

その頃の世間のうわさに、夜になると化物が出るなどと言われ、住職となる僧がなく無住の寺となって、自然と寺の修理もおろそかになり荒れ果てて、森には梟が鳴き、庫裏は狐の住家ともなってしまった。

その頃ある寺で、雷什が江湖の時、日頃親しくしていた瑞元という友との寝物語に、この友の師匠が洞昌[松]寺を半年ばかりで下山したことについて、「何か怪しいことでもあったのか、世間では化物が出るなどと、いろいろの噂がある。そなたも何か見たのか」と尋ねると、瑞元は「自分も師匠について半年ばかり居ったが、自分や召使などには、何といって変わったこともなかったが、何か夜中には変わったことがあった様子である。尤も毎夜のこととも聞かないが、このために住む僧がないのではと思われる」と話したので、雷什はその頃どこの寺に居られたのか、とにかく洞昌[松]寺に入寺することを望まれた。

このことが禄寺に及んだので、序列等にかかわらず、まずは当分の間の入寺を許された。その頃雷什は二十三四才の頃であったという。早速入寺して、日にちも経ったがなんの変わったこともなかったので、先の住僧たちはなぜ寺を下りたのかと思っていた。

やがて五六十日過ぎてのこと、寝室も破損して寒いので、仏壇の次の間に寝ていると、ある夜、枕元に何やら物の気配のように聞こえたので、目を開いてみると幽霊であった。その姿はすっかり痩せ衰え、火箸に目鼻というたとえの様、目ばかり大きく、何か物でも言いたい様子で、ただただ恨めしそうに、雷什を見ていた。

雷什は何となく、心忽然と夢幻の様になったので、しばらく目を閉じて、心の中で経文を唱え、心を静めて目を開くと、幽霊の形はなくなっていた。雷什は怪しげなことと思い、狐狸の類でもあろうかと、手燭を灯してその跡を見たけれども、何の変わったこともなかった。そうしているうちに、八声の鶏の声が鳴き渡って、夜はほのぼのと明けてしまった。

雷什がつくづくと思ったのは、これは自分の心の迷いから心が為すもの、つまるところ心が安定しないからで、残念であるということだった。そして、もし、また今宵も来るならば、今度こそは迷うまいぞと、なおなお心を静めて寝ていたのに、何の変わったこともなかったので、つまるところ自分の心の迷いであると、自分に納得させた。

十日ばかり過ぎて、夜半のころ、何となくひっそりとしたところに、その夜は月の光も差し入って寝間も明るかったのに、先夜の幽霊がふっと現れた。よく見ると、坊主の幽霊で、その痩せ衰えたところは前よりも甚だしかった。目を見開いて、物恨めしそうにして。立っていた。

雷什は声を荒げて「汝はどうして餓鬼道に堕ちて苦しむのか、どうして我を恨む相をあらわすのか」と高い声で言うと、餓鬼は答えることができないで、しおしおと仏壇の後に消えていった。

雷什はなおさら怪しいことと思い、さてはこのために千住達も転出したのか、何とも怪しいことと、口外もしないでいたが、その頃、三瀬[高瀬]八兵衛に法事があって、法式も済みやがて膳も終わって茶話になったとき、雷什が「この寺で怪しい死に方をした僧でもあったのか」と聞くと、八兵衛は「二十七、八年以前、何々という所から当所へ当分の間鑑司として参られた僧がありました。以前から無性気質の人で、ある夏の日、若い者と川原へ水浴びに行かれ、淵に沈んで溺死された僧がありました。四十足らずの僧でした。雑説では河童に取られたとか、大きな亀のこに引き込まれたとかの、種々の悪い話、気の毒な僧でありました。」と話した。

雷什心に思うには、さては夜な夜なの怪異は、この坊主が餓鬼道に堕ちて、今もその苦患を免れることができず、一遍の回向でも得たく、迷い来るのであろうと思い、それから暇乞いして寺に帰り、その夜も例の寝間に寝た。

やがて丑満つ頃か、何となく惚然として、眠るのでもなくしていると、またまたあの餓鬼がふっとあらわれた。雷什は目が覚めているように、「汝に血脈を授け、仏果を得させよう。これから七日ばかり過ぎてから来るように、その前に来てはならぬ」と言うと、餓鬼はそのまま見えなくなった。

それから血脈を整え用意して、仏壇の前へ壇を飾り、待っていたところがやって来なかった。さては仏前で恐れて来ないのかも知れないと、翌夜からは例の寝間へ壇を飾り、香花を供え、燈火を消して待っているところに、やがて七ッ時分と思う頃、以前のように餓鬼が現れた。

ところで、以前師匠が申されていたのは、「幽霊に逢っても、けっして言葉を交わしてははならない。顔を正面にして見合ってはならない。物を与えようとするならば、直に手でもって渡してはならない。幽霊の手は大変冷える物である。もし触れるときはその冷たさは除くことができない。それで長い箸でもって渡すのである」と師匠が申したことがあった。それで長さ二尺ばかりの萩の箸を用意して、壇の上に上げておいた。

雷什は起き直って、「今お前に仏祖の血脈を授けるものである。この功徳力でもって速やかに餓鬼道を免れ、仏果を得よ。ナムナム・・・喝」と高声とともに血脈を箸とともに投げつけると、餓鬼は押し戴いて、火箸のような手で合掌し、頭を垂れて三拝した。雷什も三拝すると、餓鬼は俄かに象の目のような柔和な顔つきとなって仏壇の後の方へ見えなくなっていった。

雷什は傍らにあった竹箆を取って、燈火をつけ、手燭でもって仏壇の後や位牌壇の上など、そこここたたいてみたが、変わったこともなく、もしや狐狸の仕業でもと、戸や窓を見ても、壁の破れや窓の隙もなかった。

それからは餓鬼も来なかったが、日頃懇意にしている友達の三四ヶ寺の住僧を招いて、あの不運な死に方をした鑑司の施餓鬼懺法供養をして、仏果に至らせたので、それからは怪しげなこともなく、住職を勤めたとのことである。

このことは、常安寺檀下の酒井新左衛門の所の法事の時に、雷什和尚がこられて、直談で話されたことなので、偽りはないであろう。自分はその時若年で、給仕に行っていて、老僧の直談をお聞きしており、そのことを書き綴った。怪異なこともあればあるものである。

童子百物かたり

吉田糠山(宝暦六年十一月子ノ日生、嘉永二年十一月十三日没、享年九十四)著。天保十二年(一八四一)糠山八十六歳の時成立。これは、序の終りに、「天保十二の春 如月十五の日 蝦蟆亭 八十六耄翁 糠山 戯書」と、記されていることによる。

話数五十。これは上巻のみのためである。目次に「上目録」と題してあり、その末尾に、「下五十章未出来」と記されている。下巻は現在のところ不明。上巻を著したときに既に高齢であったことより、下巻は著せなかったものと思われる。説話の配列は特に決まっていない。

内容は、変わった体験や不思議な事件を扱ったものが多く、おおよそ世間話で占められている。著者自身の身内や近隣、知人などの身近な人から話の材料をとったものが多い。(中略)

本書を書いた動機や意図は、序文によって窺うことができる。「孫ら彦らもぢぢばばに成たらバ、又孫ら彦らに、むかしむかしとはたられなん。其節の種にも成なんと、明日をもしらぬ耄のはかなさに、幽々書綴て種を蒔置、童子百物かたりとは成しぬ。後のぢぢばば達、是に増補してかたり聞せ候得」というように、自分が今、孫達にむかし話をせがまれているが、その孫達も年寄になった時、また子供達にむかしをといって、はなしをせがまれるだろう、その時のはなしの種にと思いやって、この書を書いたとしている。また著者は後の年寄達に、これを増補して子供達にはなして聞かせることを期待している。

吉田糠山については、まだ未整理であるが、糠山自身の書き留めた日記や文書、その他勤書や諸雑記を書き綴った「綱富一代記」などを拾い読んだところによると、次のようなことがわかった。

本名綱富。元綱の二男。宝暦六年(一七五六)、十一月子ノ日生(「綱富一代記」には、宝暦六丙子年、子ノ日(何日と云を失忘子ノ日と父母申聞也)子ノ刻(夜九時出生)子ノ年子ノ月子ノ日子ノ刻ノ誕生」と自筆で記している)。通称作弥と云い、安永八年二月十一日家督を相続し綱富と改名、また糠山と号した。米沢藩の番所勤めや御蔵役、学館の役方、御奉行御附物書などを経て、文政三年に一代御馬廻組に召し入れられ、三之丸の御殿の台所頭や御屋敷将を勤めたという。文を書くことが好きだったようで、随筆の草案や日記、手紙などの書きとめがいろいろと残っている。俳句もよく作ったようで俳句集なども残っている。長寿を保ち、嘉永二年(一八四九)十一月十三日に九十四歳で没している。

糠山の著書は、「童子百物かたり」のほかに、「蛙之立願」、「米沢市史」に出ているが、現在不明の「糠山夜話」(二冊)、「冬野之残草」などがある。

この「童子百物かたり」は、糠山自筆の原本であり、他に写本はないようである。