前回の答えでは普遍を自分が真理であると信じきれるものという前提で捉えましたが,この点について自信がなくなりました.1人だけ信じていても他の人が違うと思うような例はごまんとありますし,第一自分自身が信じきれているのか考えれば考えるほど心もとなくなってきます.
というのも,根拠がないかまたは不十分なままに真理であると言い続るのは盲信というもので,純粋な経験や感覚に重きを置く宗教ということであれば信仰ということで問題はないのでしょうが,研究というある程度ドライな作業においてこれは行き過ぎであるように思えたからです.
さて,先日ドイツからH. Isaacsonという新進気鋭のアメリカ人インド学者が来日しました.そのお話の中で彼がインド哲学という営みを「nachvollziehen」というドイツ語で表していました.辞書には「(他人の考え・主張などを頭のなかで)あとづける;(他人の感情などを)追体験する」とありました.本に書いてあることから,著者の思考を実感として理解できるまで突き詰めて行く.これは研究の意味は何かという問題に対して妥当性の高い答えになると思いました.
そこで前回の答えを出すまでの過程を見直してみます.すると以下のような表現がありました.
「人生はひとそれぞれで,思想も信念も価値観も多様です.それでも昔インドに生きたある一個人の思想に打たれ,それをもっと正確に深く知りたいと研究している私がいます.そして解読を進めていくうちに,数多くの共感を経て自分の思想自体が感化されつつあります.」
実はこの部分が重要なのではないかと思い当たりました.昔インドに生きたある一個人の思想を正確に知るということは,たいへん難しい仕事です.著者が考えた通りのことを書いたかどうかもわかりませんし,また著者の意図通りに読むということになればほとんど不可能かもしれません.しかしそこであきらめて本を投げ出してしまわないのは,その著作の中に魅力的な内容があるように思えるからです.自分の思想自体が感化されるまで没頭するかどうかはともかくとして,一個人が何を問題視し,どのように解決法を考えていたかを後追いし,追体験していくこと,これこそが研究する意味であるといえないでしょうか.
もちろん地域も時代も違う著者そのものになりきることはできません.しかし少しでも自分がその立場に近づければ,今まで見たこともないような世界が広がってくるかもしれません.
ただし,答え4で触れた伝達ということをこれにどう加味するかはまだ解決されていません.追体験したものはどうするのか?これを他人に伝えるとして何から伝えればいいのか?また伝えられるものはコピーされた体験なのか,それともそこに何らかの新しさがあるのか?これについてはまだまだ考えていかなければならないようです.