前回から約1年が経過しました。この問題に新しい視点を開く事件があったのでお話します。
ウィーン国立アカデミーのErnst Pretsが学会のため日本にやってきました。彼はニヤーヤ学派を専門としながら幅広い研究を展開しており、私が修士論文で取り上げたインド哲学者を博士論文として取り上げたばかりでなく、そのどの研究もわたしにとってはまるで宝石箱のような興味深いものばかりです。
そのPretsと東京で1週間一緒に過ごすという幸運に恵まれ、さまざまな話をする中で私の中で渦巻いていた問題に光がさしこんで来るのがわかりました。
Prets語録(本当にこういったのかは思い出せない。英語だったし・・・)
「我々がインド哲学を学ぶのは自らと異なる民族に対して正しい理解のもとでコミュニケーションをはかるためだ。」
「日常の何気ないものでも、それに光があてられれば芸術になる。哲学も我々と程遠いところにあるのではない。哲学することと生きることは同じである。」
「君のひらめき(プラティバー)を信じよ。」
「人生は思い通りにいくものではない。でも心配しなくてもよい。道は開けていくのだから。」
哲学することと生きることは同じこと・・・目からウロコがドバドバ落ちていきました。夜遅くの談話でしたが、うれしくて眠ることができないほどでした。研究の意味/対象を外にばかり追い求めていた私。あの山の向こうにイデアがあるということを前提にして迷路に深入りしていた私。しかしその対象はここにあるのです。哲学は何かのためにする学問ではない。
でも問題がない訳ではありません。最初に考慮に入れた日本人とインド人の違い、時代的な隔たりをどうやって超えていくか。私自身、「それは難しいことですね」と答える他ありませんでした。微笑むPrets。私は自分でこの隔たりを埋めなければならないのだと胸に刻み込みました。
それともう一つ。あまりに自分の言葉で語られた研究はしばしば研究としての価値を認められないということ。哲学者になりきって生きていくことはできない分野なのです。
いずれにせよ、このような問題の新しい転換は自分自身の視野が拡大しているよい証拠になりました。問題が解決しないままの状態で解決したことはこれからの私の生活を一層規定していくだろうと思います。
またしばらくしたら新しい視野も出そうな気がしています。