浅学にしてこのような提言をするのは浅はかであるかもしれません。私自身でさえこれから勉強を続けて後にこの文章を読めば赤面の至りでしょう。しかしだからこそきっと堂々と、臆面もなく言えることもあると思うのです。
ここでは初学者の遠慮などを一切取り払って、お話したいと思います。どうぞお付き合い下さい。
我々にとってインド哲学の最大の欠点は、インド哲学が結局インド人にしかわからないだろうということです。あれこれ考え、論文を渉猟し、議論してもたどり着けない彼岸があるような気がしています。だからインド哲学を現代哲学に安易に置き換えて考えることはできません。ようするにインド地域研究を思想面からアプローチしているに過ぎないのです。
もちろん、我々の感覚としてわからなければアプローチすらできないといった反論もございましょう。しかし一旦我々の感覚に置き換えることはあくまでも方便であってインド哲学研究の目的ではないはずなのです。 仮に、一冊のインド哲学の論書が完全に現代哲学的に解釈されたとします。それはいったい何ですか?つまらない亜流の書ではないでしょうか。
現代哲学といっても、我々と共時的な(だからわかりやすい)人物たちの構築した概念からなっていることを免れないのですから、そういった手垢にまみれた言葉=概念をもってインド哲学の論書を叩き切るというのはどうでしょうか。
ここで反論があります。
これが問題なのです。実はまるっきりこのことを考察せずに今までやってきた愚かな私でした。これについて考えうる答えを吟味していこうと思います。
怒る方もいらっしゃるかもしれませんが、これが今のところ一番妥当ではないかと思われます。この「ひまつぶし」という語は次のように考えていただきたいと思います。
考えていないと何もすることがない。
何もすることがないと発狂してしまう。
だから思考を繰り返す。
哲学が人間の精神文化に役立っていますか?誰かを幸せにできますか?結局哲学という作業は個人の作業でしかないのです。誰彼問わず影響できるのは宗教です。もちろん境界線は歴然としていませんが。
でもこの答えは逃げの一手でしかありません。それははっきりわかっているのです。自分の義務感や意志が全く感じられない。
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