インドでは古来、解脱を求めてきました。学問もヨーガも修行も、解脱のためのものとして規定されます。
解脱とは何でしょうか。一説には「この世の苦しみの全くない状態」とされ、また一説では「至上の歓喜」とされます。
前者では苦しみがない代わり楽もない、無感覚な状態。要するに、石ころになるということです。それでも、幸せが不幸と結びついたこの世にうんざりした人はこれを求めるといいます。
後者では、この世で経験したこともないような素晴らしい状態。そしてそういう解脱を希求する気持ちは世俗的でよこしまな欲望と区別され、高尚なものとして肯定されます。
どちらが正しいかは実際に解脱しない限り証明の仕様がなく、また解脱したと信じられる人もいないので、ヴェーダなどの天啓聖典の言葉にその根拠を求めるしかありません。天啓聖典ではしばしば「ブラフマンは歓喜である」と述べられています。
これだと後者のほうが有利に見えますが前者も黙ってはいません。「楽とは、苦しみのなくなった状態である。重い荷物を下ろした人が楽になったというではないか?」
ここから先は水掛け論。さて、どちらが正しいでしょうか?
現代の多くの人は「解脱などない」というでしょうが、インドでも仕事や祭式にかかりっきりになっているうちに人生は終わるものだという考えがありました。しかし、そんな人生でいいのかと天啓聖典は問いかけてきます。苦しみの原因となる欲望にがんじがらめにされながら、一生を終えてしまっていいものかと。
解脱を求める心は、現代人にもあっていいかもしれません。それは人生を放棄してやけくそになることではなく、一心に崇高な境地にに昇ろうと努力することにほかならないのです。
Takuya Ono( hourei@dp.u-netsurf.ne.jp )