インド哲学の危機

インド哲学が大学の独立行政法人化により、存亡の危機にさらされるという話です。

「大学の研究教育に効率化という視点が良いか悪いかという議論だが、私たち大学の外にいる人間でも、星の研究している人とか、インド哲学やっている人がいて、それが効率的にどうだと評価をするのは難しいだろうというのはわかる。」(NHKの討論番組より)

 インド哲学は古の賢人が記した書物を解読し、現代にその意味を蘇らせるという作業です。神・宇宙・解脱などについて西洋哲学や日本にはない独特のトピックをもっているため、理論を正確に再構築するにはものすごい時間がかかり、また研究成果もたえず再検討を必要とし、決定版となることがまずありません。

 気の遠くなるような作業を地道に行っている、そんな学問です。

 もちろんこういった傾向はインド哲学に限りませんが、虚学(学んでも実益のない学問)の代表として有名なのはインド哲学です。天文学などはまだ地球の行く末を計算したりしているのでずっと実学だろうと思います。

 これから大学が独立行政法人化され、一定の効率を要求されることになったら我々はどうするでしょうか。

 まず質より量を優先した研究になるでしょう。詳細な部分の検討を行わずに多少いい加減でもその結果を社会に出します。また短絡的に書物を要約し、古の賢者が伝えようとした意義をひたすら軽くすることに従事することになるでしょう。

 次に結果を残せないところから切り捨てられていくと、後継者がいなくなります。これまでの碩学がせっせと作ってきた方法論もうやむやとなり、インドに昔、人間存在の意味を考究した人たちがいたことを誰も知らなくなっていくでしょう。

 ここから先はどうなるかわかりません。もしかしたら日本人の精神が荒廃するかもしれないし、しないかもしれません。

「文部省は長年、個々の講座に対して定額の予算を保証し、振り分けてきた。その効用で、派手さのない学問でも何とか維持された。法人化してもそれはやめるなと言っているし、文部省も理解していると思う。そういう最低線は保った上で、それにプラスして、実力ある研究者に交付する競争的な予算を大幅に増やすべきだと考えている。」
(有馬前東大総長)

 しかし総額が決まっている以上、「最低線」は本当に最低線でしょう。0円だって最低線と言えば最低線です。これから日本のインド哲学の世界で何が起こるかと思うと、恐ろしくて夜も眠れません。

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Takuya Ono( hourei@dp.u-netsurf.ne.jp )